「私は一緒に死んでやれないけど、見届けるくらいならしてやってもいいよ」
住宅街に袈裟姿で来ないでと頼んでいるのだが、私に集まる不幸を収集するのが夏油さんの現在の仕事らしく、この服装は仕事着であるのでそこは譲れないらしい。
「あ、もちろん手は貸せないからね。殺人に関与して捕まるのは、私も勘弁だ」
彼は嗤って、いつもこう言う。そう、いつも。
情けないことに私は、これだけ毎日死にたい、死にたいと思っていても、実際死のうとしたことなんて今まで一度もないのだ。口先ばかりで、行動には移さない。良くも悪くも度胸がなく、全くお恥ずかしい限りである。
しかしそれも今日で終わりだ。ついに昨晩、何もない状態からいきなり絶望が最高潮になって、やっと実行する気になった。
「ねえ、悪いけど一緒にお風呂場まで来てくれる」
まるで彼の自宅であるかのように、ソファーでくつろぐ夏油さんの左手を取り、私は問う。
「いいよ」
楽しそうに口角を上げた彼は腰も上げた。
:
手を繋いだまま私達は廊下を歩く。夏油さんも私も何も話さない。狭い家の中での移動だ。脱衣所を抜け、すぐに目的の浴室に辿り着いた。
扉を開けた私は、水場の造りに従って一段下に降りる。もちろん、手を握ったままの彼も共に。
タイルに残った水滴が、靴下を通り越して足裏を濡らした。冷たかったが、今さらそれを嘆いても仕方がない。すでに浴槽には湯ではなく、水を張ってある。
「君が選ぶのは溺死?」
沈黙を打ち破る形で、彼は訊いた。全くデリカシーのない男である。
「うん、そう」
だが私は気分を害することなく、それに答える。
これから居なくなる世界の人に対して気を遣うのもおかしな話だが、死体処理にどれだけ他者の手を煩わせないかと、死への確実性を考慮した結果、この方法が一番良いという結論に辿り着いた。血が飛び散った現場なんて、その張本人になろうとしている私だって嫌だ。
それに好きかどうかは別として、事故現場の第一発見者は二十年間連れ添った家族の誰かになる予定だ。それほど裕福な家庭ではないため、事故物件となった家を手放して新たに住居を構える事も出来ないと思う。だからそのあともここで暮らしていかなければならない彼らへの、せめてもの謝恩である。
とにかく死に損なってはならない。中途半端が最悪だ。わかっている、決めている。私は選んだのだ。
最後に一度だけギュッと握って、私は夏油さんの大きな手を離した。少しカサついているが、優しい手だった。心残りなんて何もない。
「今から逝くから見てて」
宣言した私は洋服のまま、静かに浴槽に足を突っ込んだ。冷水の蛇口だけを捻って、そのまま出した水は思った以上に冷たい。こんな時に、自分が生きている生暖かい人間だということを実感する。なんだか泣きたくなった。
凍えるような水の温度に身体を震わせながらも、私はゆっくりと腰を落としていく。衣服がペッタリと肌に張り付く。しかし、そんな不快感は今更気にしていられない。膝もついた、手もついた。
なんてことない。元から絶望していた世界に小さなことが積み重なり、このまま生きていても仕方がないと、ようやく諦める事が出来たのだ。
「今までありがとう。あとはよろしく」
私は目をつむり、無意識的に息を吸いこんで冷たい水の中に顔をつけた。
彼は約束を守り、無様な私の姿を静かに見守ってくれているようだ。風呂場に置いてある時計の、秒針の進む音だけが、半端な広さの浴室内で妙に耳に響く。数はかぞえていないが、だんだんと苦しくなってきた。ブクブクブクと、徐々に鼻から口から空気が漏れていく。
呼吸という無意識的に行う生命活動を、強制的に出来なくさせているのだ。本能に従って、つい顔を上げたくなるが、それを必死で堪える。本当に苦しい。それが自ら選ぶ、死への試練なのだろう。
もう肺に吐き出す空気は残っておらず、意識も朦朧としてきた。唇が薄っすらと開く。いよいよ終わりが近付いてきたのだ。やっと死ねる。そう思ったその時だ。
「っぷは!!!!」
両脇を抱えられ、私は水の中から無理矢理引っ張り出された。突然のことに頭がついていけないまま、私は懸命に息をして、盛大に咳き込む。そんな私の背中をさすりながら夏油さんは言った。
「やっぱり君に死なれたらつまらないよ」
呼吸に精一杯で、彼の顔を見る事は出来ない。こんなことを言われてしまった私は、これから一体どうやって生きていけばよいのだろう。