夜十一時過ぎ。私はアルバイト先のカフェをあとにし、くたくたになりながら賃貸マンションのエントランスをくぐった。郵便受けをのぞいて何枚かのチラシを取り除いたあと、運良く一階にいたエレベーターへと乗り込み、丸に囲まれたボタンを押す。
 縦に長いこのマンションで、私が暮らすのは三〇一号室である。風呂とトイレが独立した東向きワンルームで、家賃は五万八千円。建物としては、各フロアにエレベーターを挟んで二室ずつの計四室。
 大学進学とともに入居したのでもう三年目になるが、幸いなことに住居トラブルも住人トラブルも一度もなし。上階と隣から多少生活音が聞こえるものの、生活リズムが真逆の人はいないようで。私はよく知りもしない近隣住民達と、今日も今日とて平穏な日々を送っている。

 わずか数秒で到着したフロアへ降り立ち、部屋へと続く共用の廊下へ向かって、私はくるりと身体を方向転換する。その拍子に、スニーカーの靴底がキュッと音を立てた。苦手な音だったので鳥肌が立った。
 気を取り直して顔を前に向けると、私は再び同じ動作を繰り返すハメになる。しかし今度は理由が違う。蛍光灯に照らされた廊下の先に、奥の壁へ凭れかかるようにして座る、白髪の大男がいたからだ。つまり角部屋を住居とする、私の部屋の真ん前である。
 私は思わず叫び出しそうになった口もとを抑えて、なんとかその場に踏みとどまった。明らかにお隣のOLお姉さんではないので、オートロックつきのこのマンションで、玄関前にいる得体の知れぬ人物なんて不審者でしかない。
 だが、その男性は顔を下に向けたまま動かなかった。投げ出されるようにした手足も、脱力しているようにしか見えなくて。——もしかして意識がない?
 念のためテキストの入ったトートバッグを胸の前に構えて、私は差し足忍び足で、それでも少しだけ早足で男に近寄っていく。
 そばまで来て見下ろしたつむじは、見事に真っ白だった。地毛の黒や焦茶色というものが、全く見えない。大学には派手な頭をした学生も多々存在するが、脱色したとしてもここまでの色は出ないだろう。年配の方の髪質や量とは思えないので、生まれつき色素のない人なのだろうか。
 ここまで近付いても全く動く気配のない男性に対して、私は意を決し、しゃがんで顔を確認してみる。
 すると、目もとには服と同じ色の黒色のアイマスクのようなものをしていた。スー、スー、と規則的な呼吸音も聞こえてくる。いやいや、長距離移動中の乗り物のなかじゃないんだから。
「お兄さん、お兄さん」
 呼びかけながら、肩を叩いたり揺すったりしてみるが、反応がない。というか顔も赤らんでいるし酒臭い。
 見かけたことのない人だが、他の階の住人の可能性が高くなってきた。酔っ払って間違えてエレベーターを降りて、ってところだろうか。手ぶらだし。
「このまま起きないと、救急車呼びますよ」
 ただの酔っ払いだと思うと、だんだん恐怖心も薄れてきて。脅しのような言葉を掛けるものの、うーん、どうしよう。全く起きない。
 ずっと攻防を続けても仕方がないので、私はトートバッグのポケットからスマートフォンを取り出す。しっかり上着も羽織っているし、今の季節凍え死ぬような気温ではないものの、目の前の男性が本当に酔って寝ているだけなのか素人目には判断がつかないのだから、仕方ないだろう。
 深夜近くの救急車なんて、近所迷惑は承知である。けれど、いつまでも私の部屋の前に居座られるのも迷惑である。
 スマホの真っ黒な画面に対し、ロックを解除しようとボタンに手をやったそのとき。突然に肩が重くなった。
「っ!」
 ——まただ。初めてではないその感覚に、私は汗が滲みはじめる。
 見えはしないが、じりじりと這いよるようなそれは、もう腕全体に絡みついているようで。運良くスマホは落とさなかったものの、すでに指先すら動かない。
 そうなれば、振りほどくためにせめて足だけでもと思ったが、上半身を固定されているのか、バタつくだけで進まなかった。それを抵抗とみなされたのか、腹や胸にまで広がる不快感は、だんだん窮屈さを増してくる。このままでは声はおろか、息をすることさえ、ままならなくなりそうだ。
 私は過去に一度、同じ状況で助けてくれた人物の顔を思い浮かべる。記憶を辿るが、あの時よりも動きが早急だ。彼とはそのあとに雑談をしたが、結局この現象の対処法までは教えてもらえなかった。それに今度はもうマンションの中に入ってしまったので、また運良くあの人が通りかかるなんて——。締め殺されるという言葉が、私の頭によぎる。

「じっとしててね」

 知らない声が頭の上から降ってきたと思ったら、眼前が真っ暗になった。
 なんてことない。つい先程まで呼びかけても全く起きなかった人物が立ち上がったことにより、私の視界が彼の黒い上着で埋め尽くされただけであった。
 座ったままの長い手足を見ただけでも大男だと思ってはいたが、こんなに背の高い男性は身近になかなか存在しない。いざ並ぶと私の身長は、彼の腹に近い胸元くらいまでしかなかった。
「大丈夫?」
 そこでようやく私は重くのしかかっていたものが、消えたことがわかった。固定されていたかのように、空中で動かなかった腕も下ろした。前回とは明らかに違う人物だが、きっとやってもらったことはきっと同じである。
 一歩下がって目の前の男性を見上げると、アイマスクをしたままだったので直接目は合わなかったが、私の方を見ていることに違いはなかった。
「はい、大丈夫です。ありがとうございました。……あの、あなたも大丈夫ですか」
「僕? ああ、頭ぐわんぐわんしてるし若干気持ち悪いけど、まあ大丈夫かな。ノンアル詐欺だよ、全く」
「お水持ってきましょうか。あっ、お部屋へ戻った方が早いですか」
「?僕の住んでるところはここじゃないけど」
「え、じゃあどうやってここまで」
「知人の気配を辿って、そこから普通に……って不法侵入はしたけど、不審者じゃないからね」
 そこからと言って彼が廊下の手すりを指差したあたりで、再び胸元にトートバッグを抱え直した私を見て、身の潔白を証明するように目の前の男性は両手を振る。
 それでもここは三階だし、よじ登ってきたにしても意味が分からないし、隠れている目元も怪しさを際立たせている。助けてもらった事を差し引いたとしても不信感が拭えず、私はじりじりと後ろへ下がる。
 すると彼は、目元を隠していた黒い布を下げ、腰を幾分か曲げたあと、私に視線を合わせた。

「綺麗な目」

 青く光り輝く瞳に、思わず息が漏れる。まるで宝石のような二つのそれは、私が今まで見たどんな青色よりも美しかった。
「ありがとう。さっきみたいな事、最近なかった?」
「一週間前にもありました」
「そうなんだ。その話が聞きたくて、部屋の主っていうか君を待ってたの」
「じゃあ先ほどの御礼も兼ねて、お茶でもいかがですか」
 アルコールのせいかまだ少し赤みの残る彼の顔よりも、今の恍惚とした私の顔の方が赤いかもしれない。
 美しい顔に見惚れるがまま、口から自然と誘うような言葉が出てしまっていた。はしたなかっただろうか。



 軽く自己紹介を済ませたあと、私の淹れた熱いお茶をのみながら、最初に彼の話を聞いた。
 彼は五条悟さんといって、先刻私の肩に憑いた悪いモノを祓う除霊のような仕事をしているらしい。目隠しは、私には見えていないモノが、彼には見えすぎるから常にしているのだと教えてくれた。
 その見えすぎるものの中には、良くないものに対して使った力の、残り香のようなものも含まれるらしく。今夜食事をした帰り道に、たまたま行方不明の知人——夏油傑さんの気配の跡が私の部屋に見えたから、五条さんはここへやって来たと告げた。
 私も私で、その夏油さんだと思われる人とのエピソードを語って聞かせた。

「で、通りがかりのお坊さんが手をかざしたあとから、肩が軽くなったと」
「はい」
「今夜みたいに部屋に上げたの」
「はい。部屋も見せてって言われたので。珈琲も飲んでいかれましたよ」
「はあー……」
「確かにスキンヘッドじゃなかったですけど、お坊さんの格好してる人が悪い人なわけないじゃないですか。本当に重いのもなくなりましたし」
 丸いローテーブルに肘をついた五条さんは、わざとらしく溜め息を吐いた。そして項垂れる。
「元気出してください。手掛かりが残っていなくて残念でしたね」
「それよりも君に呆れているんだよ。なまえちゃん、警戒心なさすぎない?」
「そんなことないと思いますけど」
 まだ彼の顔を見ていたかったので、私はローテーブルに頬をつけ、伏せ気味になってしまった綺麗な目を下から見上げた。冷たいのは一瞬で、無機質な材質も私の体温にすぐ馴染んでいく。再び美しい顔が、視界を彩った。
 顔が熱い、胸が苦しい。もうハタチも超えたはずなのに、どうやら私は一目惚れをしてしまったようである。忘れかけていた幼い初恋のような感覚が、心臓を中心に渦巻いてる。
「終電ないから泊めてった言ったら、泊めてくれんの」
 横から伸びてきた大きな手が、火照った私の頬を覆う。そして親指が慈しみをこめたように、時間を掛けてくちびるをなぞった。
「はい、もちろんです」
 呆れられると知りながら、私はそのように答えた。私の下心に、五条さんが乗ってくれていると都合よく解釈したからだ。
「来て」
 その言葉を皮切りに、身体を起こして、今度は私が彼の頬に手をやる。そこは想像よりも熱を持っていた。そして確信した。
「目、閉じてくださいね」
 徐々に後ろのベッドへと凭れかかっていく五条さんの上にのしかかるようにして、私は顔を寄せた。
 ふにっと柔らかい感触を味わったと思ったら、薄く開いたくちびるをこじ開けるようにして、向こうから熱い舌が入ってくる。
 そこからは無我夢中になって絡めた。つい今程まで、となりで同じ緑茶を飲んでいたはずなのに、五条さんの口の中は甘かった。その前は甘いお酒を飲んでいたのかもしれない。

「なまえちゃん、やっぱりチョロすぎて心配だわ」
 キスの間に五条さんは私を批判した。しかし腰を撫でる手はすでに衣服を乱しにかかっていて、止める気はないようだ。
「傑ともこんなことしたの」
「まさか。少し世間話をして、帰っていかれましたよ」
御礼にお茶でもいかがですか