呪術界の御三家にあたる五条家には、五条悟という名の産まれた瞬間から圧倒的な力を持つ人間がいる。彼は五条家だけでなく、世界にとっても特別な存在であった。
 けれど、彼一人だけでは世界は成り立たない。悟がいくら赤子のうちから孤高であろうと、自立するにつれて、その他大勢の中で一人の人間として生き抜く最低限の常識や知識が必要になってくる。
 悟は義務教育期間を終えるまで学校というものに通ったことがなかったが、それらを身につけるため、幼い頃は親戚の子ども達とともに、家の者から一般教養を学んでいた。

「悟兄さま、今度はなまえが相手になります」
「手加減しねえからな」
 本日分の教えが終わり、組み手——ではなく各人ゲーム機を手にして、五条家の子ども達は放課の時間を過ごしていた。宗家、分家など身分の違いはあれど、ここには八歳になった悟と年の近い五人ほどの子どもが集められており、畳の上では各々対戦ゲームを楽しんでいる。
 悟が特別なことに変わりはないが、親の愛情をほしいままに育った子どもには、忖度についてやはり理解が及ばない部分も多い。しかし教育の賜物で、最悪一瞬で他の命を奪ってしまう危うさがある彼も、ここでは理由なく誰かを傷つける事はなかった。
 また五条家の幼子には、差し当たって無礼がないように大人には某様、親族の年上の者には兄さま姉さまと、名の前につけて呼ぶように躾られている。
 だがこの辺りの年齢になると家の事情を知り、悟より上であっても悟様なんて呼ぶ者も出てくるようになっていた。それが五条家において本来の在るべき序列であり、少年は大人を含む年上の人間から悟様と呼ばれることについて、当然のように思っていた。
 けれど二つ下のなまえは、先程と同じように「悟兄さま」と年を重ねても人懐っこい笑顔を向ける。しかし悟も悟で、再従兄妹にあたる彼女を親戚のなかで一際猫可愛がりしていたので、そう呼ばれる方がむしろ喜ばしかった。
 もちろん陰では、それをよく思わない人間もいた。悟がいないところで少女に嫌味を言う、子どものような大人もいた。

 その頃から十五年の時が経過し、悟は二十三、なまえは二十一になった。
「ただいま、なまえ」
『おかえりなさい 悟兄さま』
 彼の数ヶ月ぶりの帰省にあたって玄関まで出迎えにきた彼女は、大きな手が自身の頭に乗ると、先刻掲げた『おかえりなさい』という文字が書かれたノートを胸に抱き、はにかんでみせた。
 なまえはあれから数年後、口が利けなくなってしまっていた。声を発する事は可能だが、舌が回らずそれが言葉にならない。
 呪詛師から呪いを受けたせいであると、本人は周囲に伝え済みだ。しかし五条家の者は皆、身の程をわきまえずいつまでも馴れ馴れしくする少女に対し、不快に思った悟が舌を切ってしまったのだと噂している。
 さすがに真相を直接悟に尋ねる、命知らずな輩はいなかったが、取るに足らない術式しか持たない少女が襲われるには不可解な点が多すぎた。
「そういえばなまえ、どこぞの家の男に求婚されてるんだって?」
「!」
 なまえは驚いたように目を見張る。そしてもう一度サインペンを走らせようとしたのだが、悟に止められた。
「いや、今は書かなくていいよ。今晩ゆっくり話そう。湯浴みが終わったら僕の部屋においで」
 彼は敵意がないことを示すかのように、最後に一度彼女の頭を撫でると、屋敷の奥へと進んでいった。女中のとなりで悟の背中を見送るなまえは、姿が見えなくなるまで頭を下げていた。



 次々と屋敷内の灯りが消える時間帯を迎えた五条家の、だだっ広い和室の中央に隙間なく敷かれた二組の布団の上。寝巻きの浴衣に着替えたなまえは、そこで一人ぽつりと正座をしていた。
 かれこれ数時間、彼女は一人の男を寝ずに待っている。時計を再度確認し、彼女がそわそわとしだしたところ、頃を見計らったように襖が開いた。
「待たせてしまいましたね。お父上との話が思いの外、はずんでしまって」
 構いません、という意味を込めてなまえは首を横に振る。
 どこから聞きつけてくるのか、悟が本家に来る日はやたらと来客が多い。悟とコネクションを作りたいが為で、先日晴れてなまえの婚約者となった彼も、いずれ義父となる男に呼ばれた口であった。
 よくある見合いの場だったが、えらくなまえを気に入った申し分ない家柄の彼と、口がきけなくなった厄介者の娘をさっさと嫁に出したい彼女の父により、その日から婚儀に向けて事が進んでいる。なまえが話せないのを良い事に、今夜はこうして寝床まで同じくされ、彼女は心底うんざりしていた。
 しかし、あからさまな態度で拒否出来ないのは、彼が彼女の実父のように家柄や術式だけに目がくらんだ男ではないからで。見合いの場で出会わなければ、丁寧な言葉遣いや品の良い仕草など、かなりの好印象を抱いた人物であった。
「さあ、夜も更けてきましたし横になりましょう」
 なまえはその言葉に頷くと腰を上げ、枕元の灯りをともした。そして部屋の全体の照明を消しに向かう。
 蛍光灯から伸びた紐を引くと、一気に部屋は薄暗くなった。その途端、何もない客間が妙に艶めかしい部屋に変わる。枕元の橙色の光が男を下から照らし、なまえは足を止めた。
 けれど彼は彼女の様子を窺いつつも、そそくさと先に床に入っていった。そのことに安心し、最後にと間接照明を消したなまえは、自分も隣の布団を捲った。このまま何事もなく、朝を迎えることが彼女の今夜の願いである。
 しかし、それはすぐさま打ち砕かれる事となる。横から腕が伸びてきて、一瞬のうちになまえは男に組み敷かれていた。
「婚儀の日取りも数ヶ月後に決まりそうです。これを機に、僕に身体も許してくれますか」
 なまえはその言葉に血の気が引いた。すぐさま彼の下から這い出ようとするものの、男はそれを許さず、肩を押し戻された。
「——!——!」
 身を捩り、顔を背け、声にならない声で、彼女は抵抗する。ここまで来ておいて随分と身勝手だが、なまえは酷い裏切りに遭った気分になった。
「あなたは五条悟と親しいようですから、彼の邪魔が入る前に既成事実が欲しい」
 いつの間にか手首を一纏めにされ、男の顔が首筋に寄る。彼女のそこに生ぬるい息がかかった。同時に浴衣の襟から手を入れられ、彼が女の膨らみの形を捉えたそのとき、なまえは突如煙となってその場から消えた。



 目覚めたなまえは、すぐさま布団の中でぴったりとくっついて眠る悟にしがみついた。
 彼女の術式は影分身であり、呪力を貯めてようやく月に一度だけ発動出来るというものだ。つまり婚約者のもとに送った分身が消え、悟とともに眠っていた本体に経験が還元されたことにより、こちらのなまえが目を開けたという訳である。
「どうしたの?」
 彼女が擦り寄ったことで起こしてしまったのか、半分微睡んだような声で悟は問う。
 しかしなまえの背中に手を回すことは忘れない。その手つきは優しく、それによって彼女は、本来の落ち着きを取り戻していく。
「ん」
 あちらの出方にもよるが、影分身を婚約者のところへやったと彼は知っているので、下手に言い訳をしても隠し通せないと判断したのだろう。なるべく事を荒立てたくなかったが、なまえは畳の上に置いてあった悟のスマホに手を伸ばし『身体を求められたから逃げ戻ってきた』とだけ文字を打ち込んだ。
 なまえには、取り返しのつかない大罪を犯してしてしまったという自覚がある。もう五条家には一生戻れないだろうし、父の怒り具合によっては両家からこの先の命を狙われることになるかもしれない。
 悟を選んだ時点で、彼女は覚悟を決めていた。

「本当腹立つ」
 画面の文字を確認すると、彼は強い力でなまえを抱きしめた。仰向けになった自身の上に乗せて、さらに力を込める。華奢な身体は骨が軋むかと思ったが、彼女は黙ってそれに耐えた。
「僕の目が届かないところで婚約してたってだけで最悪だったのに、今夜みたいに別の男と一緒の布団で寝るだなんて言われた僕の気持ち分かる?分身でも気が狂いそうだっつーの。……どっか触られたの?」
 彼女は、誇りを傷つけてしまった婚約者の男へのせめてもの償いとして、彼の胸板の上で首を横に振る。
「ふーん、あっそう。優しいなまえに免じて、そういう事にしといてあげるよ」
 悟は腕の力を緩め、彼女の背中を撫でた。なまえは彼の頬に手をあてて、唇を重ねた。ただ触れるだけの幼稚なキスだったが、最愛の男のご機嫌とりには十分であった。悟の口角があがる。
「日本では法律上いとことの婚姻が認められているんだから、近親婚なんて言ってないで、はとこ同士の僕達ももう籍入れちゃおうよ。そのうち子どもも出来るだろうし」
 なまえは先程の行為を思い出して、彼の上で太ももを擦り合わせる。今寝巻きのしたで、彼女の下着を濡らしているのは、膣内から漏れ出した悟の精液である。影分身が婚約者を待っていたとき、なまえはこの部屋で悟に抱かれていた。奥深く出されて、何度もこすりつけられて、彼女もこのまま孕んでしまう気がしている。
「朝になったら五条家を出る事は確実だけど、この先僕から一生離れないって約束出来るなら、舌の呪いも解いてあげるよ。僕も久しぶりになまえから『悟兄さま』って呼んでもらいたいしね」
 もう彼女には彼を頼る以外に、生き残る道はない。
 なまえが幼い頃から慕っていた悟兄さまは、彼女の自由を全て奪った。
花の檻