遊女であるなまえは猫を飼っていた。青い目を持つ、真っ白な毛並みの雄猫で『悟』という名を女は与えた。
 猫を飼う遊女は珍しくない。寝子というだけあって、猫は遊女にとって縁深く、様々な役目を果たしている。自身をより妖艶に引き立たせる飾りものとして、時には猫のしなやかな動作を使い、客を誘き寄せる道具として等々、挙げ出すときりがない。彼女達は猫と共にあった。
 そして足袋をはかず素足である事が粋とされていた時代。板間である見世がどれだけ冷えようと、遊女も例外ではない。
 見世の遊女達は暖をとるために己の懐に猫を招き、ある時は膝の上に抱き、またある時は足元に忍ばせて、湯たんぽがわりにしていた。

 余寒が続く夜見世が始まり、なまえは自身のひざの上で丸まった悟を撫でつつ、今晩も外の客に向けてどこか影のある表情をつくる。彼女は客さえ嫌がらなければ、座敷にまで悟を連れて行く事も暫しあった。
「この子は、お利口さんな猫でありんす」
 これはなまえの口癖だ。確かに悟は空気を読める猫であった。宴会時には女の側で、あるいは部屋の隅で、まるで人間に興味がないかのように、ただの置き物として振る舞う。
 しかしお開きの時間になりなまえと客とのまぐわいが始まると、追い払われるでも、太鼓持ちや禿に抱きかかえられるまでもなく、自ら座敷出ていく賢さが彼にはあった。
 けれども、やはり主人が恋しいのか。彼女が同衾を終え日が昇る頃には、脱ぎ捨てられた着物の中で丸まっていたり、堂々と布団に潜り込んでなまえと客との間で眠っていたりと、猫特有の太々しさを悟は発揮していた。
「お前ほど大事な者はいないよ」
 彼女がそう告げると、彼はゴロゴロと喉を鳴らす。そんな様子を見ながら、なまえは思い返していた。
 初対面はちょうど三年前、中庭にエサを強請りにきた時である。当時の悟は子猫だった。妓楼内で飼い猫が子を産んだ話もなく、野良のはずだが、真っ白な猫なのに汚れひとつないのがなまえは不思議で仕方なかった。
 客の食べ残しの刺身を与えると「ニャー」と鳴き、見上げた瞳に彼女は一瞬で虜となった。大層愛おしく思い、守ってやらねばと母性のようなものを感じた。
 それに『小雪』と名乗るなまえにとって、悟はぴったりの存在であった。
 いつか悟を連れて遊郭の外に出る事が彼女の唯一の願いである。だが、自分を身請けしてくれるほどの立派な客はついておらず、花魁や太夫になるほどの技量もなく、日々老いていく女にはきっと叶わない願望であろう事も重々承知していた。

「コイツにする」
 現実に引き戻されるように、予期せぬ方向からの声へ彼女が首をひねる。するとなまえは、口に傷のある男から指先を向けられていた。
 眼前の人物は、見窄らしさや小汚い格好をしている訳でもないのに、危険な香りが滲み出ている。人殺しの人相とでも言おうか、彼女の女の勘が、この男からは嫌な予感しかしないと告げている。
 しかしなまえは個室を持っているものの、太夫や花魁ではないただの遊女なので、客を選べない。指名を拒むことは、ここで生きることを諦めるのと理由を同じくする。
 男には連れがおり、楼主の命でかつて同じ太夫に仕えた遊女を呼んで、気が乗らないままなまえの今夜の仕事が始まった。
「コイツ何飲んでも酔わねえから、一番安いので」
 連れの男がそう口にした。どうやら二人は仕事上の付き合いで、接待を兼ねているらしい。
 なまえはかれこれ一時間近く、甚爾と名乗った男の隣で酒を注ぐが、確かに顔色がちっとも変わらない。酔わせて寝かせてしまうのが何よりだと思っていたが、酒に対して異様な耐性である。
 そして笑みを絶やさぬよう努力をするが、彼女は未だに警戒心を解く事はなかった。箸を持つ仕草に品すら感じられるのに、男に対する違和感が抜けきれないのだ。
 そんな主人の様子に気付いたのか、いつもは目を伏せている悟も酒の席をじっと見ていた。


 大引けの拍子木が鳴り響き、なまえはふと我に返る。
 行灯のあかりに照らされた自身の姿は、背後で胡座をかいた男から、衿を緩められているところだった。
 彼の息が肩にかかる。先に帯も解かれており、白魚のような生足をさらけ出していた。ろくに慣らされないまま指を入れられると、ヒュっと喉がなった。
「そういや加茂屋の次期当主って実は妾の子らしいな」
「っ、……そんな噂もありなんすか」
 聞きもしない事をベラベラと喋る馬鹿な男にすら、愛想を尽かせられないのが遊女である。
 こんな日に限って未だに座敷から出ていない悟の青い目が、薄暗い部屋の中で異彩を放っていた。
「なんでも正妻が子を孕まなかったんだとよ」
「まあまあ、よくある話でありんす」
「お前知ってたろ」
「そんな訳、」
 なまえは笑って誤魔化そうとするものの、甚爾は手を緩めない。奥へ奥へと掻き分けて進んでくる。身を捩るも、ひたすら追いかけられるだけであった。
「今の当主の弟君がここの常連って噂だよ。お前に入れ込んでるとかなんだとか」
「んっ、まさかわっちごときに。——それに、今は主さんとの時間ゆえ、野暮な話はやめましょう」
「俺にとっちゃ野暮な話でもねぇんだわ。財布がさみしくてな。金になりそうな他のネタがあるなら、俺にくれねえかなァ」
「きゃあっ!」
 首根っこを掴まれたなまえは、そのまま畳へ押し付けられた。打ちつけた痛みよりも、擦り切れたであろう皮膚がじんじんと熱を持つ。
 出られもしない外の世界の事なんて彼女にとってどうでも良かったが、ここで今生き抜くために、大金を落とす太客を失うわけにはいかない。なまえは唇をキュッと結ぶ。
「案外口が固んだな。さっさと抱いてドロドロにしてやった方が手っ取り早かったか?」
 手の力をさらに強められると、息がしにくくなった。再び背中に男の体温を感じる。それでもなまえは喋る気にはならなかった。生き地獄を味わうよりも、この遊廓という鳥籠から解放されたい気持ちの方が強かったからかもしれない。
 視界が黒に染まりゆくなか、つまらない意地を張って死ぬのも、何もかもから捨てられた自分らしいと彼女は思った。親や年の離れた兄弟、たらい回しにされた親戚に奉公先の当主、走馬灯のように彼女を捨てた人間の顔が浮かぶ。
 その時だ。シャーッという聞き慣れない、動物の威嚇音が部屋に響く。重みがなくなった瞬間になまえが身体を捩ると、悟が男の手の甲に噛みついていた。
 普段は誰に対しても大人しい猫なので結びつかなかったが、じゃれているような噛み方ではなく、彼は確実に甚爾に対して敵意を向けていた。
 一度振り払われたが、畳に着地した悟は毛を逆立て、再度男に飛びつく。そして首を目掛けて爪をたてる。
「鬱陶しい猫だな」
「悟!」
 しかし所詮は猫であり、人間に敵うはずもない。真っ白な小さな図体が、大きな音を立てて襖にぶつかった。甚爾に力ずくに引き剥がされたあと、蹴っ飛ばされたのだ。
 なまえが急いで駆け寄るも、彼はピクリとも動かない。
「誰か!誰か!」
 女は涙ながらに叫ぶ。
 消灯時間を迎えようと、遊廓の夜は長い。床を共にするのが、遊女の仕事のひとつであるため、深夜でも沢山の者が目を開けている。この金切り声は、用心棒にだって届くだろう。
「興がさめた。金も払わねえからな」
 男は真っ先にやって来た禿と入れ替わるように座敷をあとにし、悟は少女によって部屋から引き上げられた。ここに置いておくと、今度は楼主に殺されてしまうと、真っ青になった彼女が必死に頭を回したからだ。


 甚爾に強引に迫られたから抵抗したと嘘をついたなまえは、明け方まで楼主にこっぴどく叱られ、折檻も受けた。後から聞いた話だと、連れ合いの男もいつの間にか布団から姿を消していたらしい。代金は支払われておらず、大損失だと嫌味を言われた。
 だが、それすら些細な出来事だと思えるような不幸が、なまえに降りかかる。彼女が束の間の休息のために部屋に戻ると、悟が居なくなっていたのだ。
 禿によると、座敷から引き上げた悟をそのままなまえの私室へと運び、座布団の上に彼を寝かせて部屋をあとにしたという。なまえも楼主のところへ引き摺られる時に、その姿を確認している。
 禿は涙を滲ませ、途切れとぎれに言う。あれからの悟の様子としては、かろうじて息があり血を吐いたりしないものの、見るからにぐったりとしていて、とても動けるような状態ではなかったそうだ。
 猫は死ぬとき、主人のもとから去るというが、それは本当なのだろうか。
 彼女は生きる希望を失ったかのように畳の上で咽び泣いた。
前編