いくら最愛の猫が居なくなろうと、いくら客にすり傷をつけられようと、いくら楼主に折檻をうけようと、例外は存在せず遊女に休みはない。
 昼見世には支度が間に合わなかったが、なまえは泣き腫らした目元と甚爾によって負わされた傷口を白粉で隠し、夜には張見世に出た。
 華やかに執り行われている花魁道中の黄色い声を聞きながら、彼女は空虚となった自身のひざの上と手元を見て、姿を消した悟を思い遣った。
 猫は気まぐれな生き物だから、きっとそのうちフラッと出てくるだろうと励ます者がいる反面、一度出て行ったらもう寄りつかないと冷ややかに嗤う女も何人かいた。これが彼女の身を置く世界である。
 なまえは腫れぼったい目元を伏せ、ひざの上で手の甲を重ね握りしめた。まだ半日ほどしか経っていないが、彼女は悟の面影を追ってばかりいて、客商売の誇りも無いまま、ただただ涙を抑えこむのに必死だった。


「なまえ」
 雑音が蔓延るなか籬越しに名を呼ばれ、女は思わず面を上げてしまう。しかし彼女の本名は、同じ妓楼で働くごく一部の人間しか知らないはずである。それに遊郭に売られる以前から、呼んでもらえる事の少ない悲しい名だった。
 口を尖らせ、まるで自分自身に言い聞かせるように彼女は呟く。
「わっちは小雪でありんす」
「そうだったね」
 そっぽむくなまえに対し、腰を折り目線を合わせるようにして近付いた男は、夜の街にはいささか不似合いな、蒼天のような真っ青な瞳をしていた。フサフサの白髪頭を傾けられ、彼女は目をかっぴらく。見た目のみならず、人を覗き見る仕草や柔和な話し方は、彼女の愛猫である悟を彷彿させるには十分だった。
 偶然という言葉では片付けられない。態度を一変し、なまえは信じられないものを見ているかのように、口をあわあわとまごつかせる。そして隔てる格子も厭わず、女は男の方へと手を伸ばした。
「可愛い、それと嬉しい。僕が今夜小雪と過ごすにはどうしたらいいの」
「あそこに座る、見世番の男に——」
「わかった、すぐ行ってくる」
「あ、」
 こういった世間知らずな男には、ぼったくりのような金額をふっかけるのが、夜の街の常である。
 むしろ自分の方が彼を知りたいとなまえは思ったので、入れ知恵を仕組むつもりが男はあっさりと背を向けてしまった。
 後ろから呼び声が掛かる。指名が入った合図だった。



「主さん、名はなんと」
「僕は五条。よろしく」
「改めまして、わっちは小雪でありんす。以後よしなに」
 前払いという形で相場の倍の金額を支払ったこの男は、座敷に食事だけ運ばせて、あとは朝日が昇るまで自分達以外、一切畳のへりを跨ぐなという条件を出した。つまり良くも悪くもなまえは朝までこの男とずっと二人きりである。
 不安と期待が入り交じる彼女に対し、ぴったりと隣に腰掛けた彼は、大層機嫌が良さそうだった。
「僕の前では故郷の言葉で話してよ。客なんだけど、客扱いはさみしいから」
「では、そのように。……あの、名の件で先ほどは不躾な態度を取りました。大変申し訳ありません。その、五条様は私の本当の名を知ってらしたようですが、以前どこかで」
「とある筋から僕が勝手に知っただけ。他言はしていない。だから二人きりの今は小雪じゃなくてなまえって呼ばせて」
「仰せの通りに」
 固いなあ、と笑いながら五条は盛り合わせのなかから刺身を一切れ口に運んだ。その横顔を見れば見るほど、彼女は傷を負ったまま姿を消した悟の事が頭によぎる。
「僕のことばかり見てないで、なまえもお食べ」
「いえ、私は」
 遊女が客の食事に手をつけるのは、御法度とされている。実際この空間には五条となまえ、二人だけしかいないのだが、壁に耳あり障子に目ありという事がこの妓楼では平気であり得るため、彼女も下手なことをできない。妬まれた末に告げ口をされ、その後に待っているのは折檻だけである。幼い頃から何度も見た光景だ。
「じゃあ僕が食べさせてあげたいから、それをさせて」
 そう言ってなまえを胡座の上に乗せると、五条は左腕で彼女の身体を支えて、右手で箸を口もとへ持っていく。あーん、と自身も口を丸くし、まるで子どもに食事を与えるような動作だ。
 女は差し出されるまま、箸の先のものをぱくりとくわえる。
「……美味しいです」
「それは良かった。もっと食べようね」
「はあ、——んっ」
 今度は梅の花を形作ったニンジンの煮物を口に運ばれた。質素な食事しか与えられない遊女にとって、初めて食べる味であった。彼女は頬を綻ばせる。
「ちゃんと噛むんだよ」
 五条は終始腕の力を緩めず、なまえも身を任せるままであった。そして彼女に食わせて彼自身もその隙に他のものをついばむという、雛の餌付けのような食事は、皿が空になるまで続いた。
 最後に食べさせられた赤い実の果物の酸っぱさに、なまえが顔を顰めると、彼はようやくいつもの顔になったねと微笑んだ。

「腹が満たされたら、眠くなってきちゃった」
 今度は正座するなまえのひざに、五条が頭をのせる。すると彼女はそうするのが自然というように、広がる白髪を撫でた。気持ちよさそうに彼は青い目を伏せる。
 下から覗きこむようにする仕草や、間延びする声。外見だけでなく、五条という男になまえは何度となく猫の悟を重ねた。
 そんな馬鹿なことを口走って愛想を尽かされては元も子もないので、彼女は心の中に留めておく。この時間が永遠に続けば良いと思うほど、なまえは初対面の客である五条と過ごす時間が心地良かった。
 ふいに下から伸びた手が女の首筋をなぞり、昨晩ついた傷跡で止まった。
「……可哀想に、痛くて泣いたの。まぶたが腫れたままだ」
「お見苦しい姿でしたね。泣いたのは、飼い猫が姿を消してしまったからです」
「こんなにも可愛い人から想ってもらえる猫は幸せだね」
「私のような遊女でも、そう思ってくれているでしょうか」
「泣かないで」
 なまえは気がつくと、ぽろぽろと五条の上に涙をこぼしていた。止めようと思っても次々と溢れ出るそれは、心の拠り所となっていた猫を想っての雫だった。
 決して幸福とは言えない幼少期を過ごした彼女は、自らの未来を諦めてしまっている。そんな地獄の日々のなかで唯一心を許して話せたのが、人間ではなく猫の悟だったのだ。
 このまま彼が戻らなかったらと考えた時に、彼女は命を絶ちたいとさえ思っている。ここへ来たときから、当たり前のようにさせられているこの仕事も、なまえにとって限界に近かった。
「さあ、ゆっくり休もう」
 長い指で涙を掬いながら男は言った。

 先に支度を整えた五条が床に入ったのを追うようにして、長襦袢一枚の姿になったなまえは彼のいる布団を捲った。
 互いに向かい合うと、自然と寄り添い、五条は未だに潤んだままの彼女の目もとに唇を寄せる。彼の優しい仕草に、なまえは再び泣き出しそうになった。
 一夜妻のごっこ遊びを楽しんでいた時期もあったが、彼女に気を許せる男性客は一人もいない。今は仕事としてそう振る舞うだけだ。
 心動くような人間なんて存在しない。そんな日々を送っていたはずなのに、女は久方ぶりに異性を愛しいと感じた。
 くっついては離れてを繰り返すそれを享受しながら、緩く着た自身の着物が勝手に乱れていく。
 頃合いを見計らったかのように、布団の中でなまえは五条の帯紐をほどきに掛かった。けれど、その動きを封じるように手首を掴まれる。
「……ごめんなさい、嫌でしたか」
「決して嫌じゃないよ。だけど今夜じゃなくていい」
「しかし多すぎるほどの代金を頂いております」
「今晩は君と一緒に眠るだけでいいんだ」
 そう告げると、五条はなまえの手首から大きな手を離し、掛け布団の上から彼女を自身の胸元へと抱き寄せた。押しつぶされるような力強さがあるものの、隙間がないことがなまえを安心させる。
「さあ、お眠り」
 五条に頭をひと撫でされると、女はまじないをかけられたかのように、深い眠りに落ちていった。



 東雲の頃「また来るよ」という台詞を彼女は聞いた。
 再び目を覚ました時には、布団はもぬけのからで、五条は居なくなっていた。
 悟と重ねてはならないと思いつつ、しなやかで足音もなくて、まるで猫のような男だったとなまえは思った。
中編