日も随分と高く昇った頃。まるで一夜の夢まぼろしだったかのように、共に眠った布団に男のぬくもりは残らず。ただの抜け殻となった寝床をひとり出て、なまえは朝風呂に向かった。
 途中彼女は中庭で「悟」と愛猫の名を呼んでみるが、やはりいつもの長い鳴き声は返ってこなかった。

「小雪姐さん、悟は見っかった?」
 湯浴み後、後ろでなまえの髪を整えながら妹分である禿が問う。最後に悟に触れたのがこの少女であり、責任を感じているのか、あれから目に見えて気を落としているようであった。なまえも同様の気分だったが、少女に当たるのはお門違いとわかっているため、なるべく平坦な声を装う。
「まだどこにも居ないの。ひょっこり出てきそうなものなんだけどねぇ」
「前もおまんま食べにこないって言ってたら、いつの間にか押し入れの中で寝てたことあったよね。口のまわりに米粒つけてさ」
 今度は前に座って、なまえが櫛をいれてやっている童女が後ろを振り向き、過去の出来事を口にする。幼いながらも、慕うなまえのことを励まそうとしているのだろう。
「もう、動かないの」
 茶目っ気を交えて、なまえがまだ湿り気の残るおかっぱ頭を戻してやると、童女はごめんなさいと笑った。そんな様子を窺いつつ、再び後ろの少女が口を開く。
「そういえば昨日のお客さん、髪が白くて目も青くて、なんだか悟みたいだったね」
「私も思った!姐さんに膝枕されてる時なんか悟の寝方と一緒だった!」
「二人ともさては覗き見してたね」
 なまえも視線には勘づいていたが、同僚の嫉妬深い女ではなく、彼女が世話を焼く二人の禿だったことに安心した。
「だって女将さんが酒も足りてるか見てこいって言うんだもん」「初めての客なのに座敷からみんな締め出すなんておかしいっておばあが」「悟のことで姐さんすごく泣いてたから太鼓持ちも行ってこいって」「とにかく小雪姐さんが心配だったんだもん」と二人して口裏を合わせてあったかのように、代わるがわる言葉をつむぐ。
「あのねぇ咎めるつもりはないから、あの人のこと決して悟と重ねるんじゃないよ。猫が人に化けるなんて馬鹿な話はないんだから」
 一晩明けても、五条という男に悟の面影を重ねていた一番の人物は、なまえであった。だからこれは、自分自身への暗示に近い言葉だ。



 昼見世が終わると、遊女達は夜の営業に向けて慌ただしくまなかいをかき込み、化粧直しを行う。そして夜見世までの空いた時間で、客への恋文をしたためたり、三味線や歌の練習をしたりする。
 けれど日が落ちてすぐ、なまえは誰よりも早く張見世へ上がった。
 昨日の今日で同じ客が訪ねてくれるはずがないと知りつつも、奥の方から女は格子の外の通行人を目で追う。昼にも同じことをしていて、となりでカルタをとっていた遊女に小突かれたばかりだが、まるで懲りていない。
 耳元で囁かれた言葉も、食事の際のしなやか箸使いも、身体を支えるがっちりとした腕も、涙を拭う優しい指も、寄せられた胸元の体温も、目を閉じただけで鮮明によみがえる。昨晩抱かれていないだなんて他の遊女に言ったら、きっと鼻で笑われるだろう。
 彼女はもう何年も男相手に座敷を持っているが、商品である自分が客からあれほど丁重に扱われたことはなかった。
 だからどれだけ大勢の中に紛れていようと、どんな雑音の中にいようと、彼を見つけると彼女は決めていた。
 なまえは腰を上げるため、無意識的にいつも膝の上に乗っていた悟を抱き上げる動作をする。
 人混みの奥で銀色に輝く頭はひとつ抜けていて、青く深い瞳は真っ直ぐ彼女を捉えていた。
「なまえ」
 たった一言、愛しい人から名前を呼んでもらえる。それだけで特別なのだ。



「まさか、二日にわたって来てくださるなんて」
 酒を好まないという男に、女は手ずから砂糖菓子を口へ運んでやる。五条は同じ金額を払い、店側に再び同条件を突きつけた。
「ここに居られるのも、あと数日だから」
「そうですか」
「そんなあからさまに哀しい顔しないで」
 後ろから抱き込むようにして、彼は女の首もとに顔をうずめる。腕の力を込められると、彼女はさらに胸が苦しくなった。
「私は五条様を心よりお慕いしておりますから、別れはつらいです」
「君は本当に可愛い人だね」
 二人が唇を寄せ合うのは自然の事だった。


「気持ちいい?」
「ん……ふっ、はい。……っ五条様は」
「うん、僕も最高に気持ちいいよ」
 なまえが掻き抱くように腕と脚を五条に巻きつけると、繋がった部分から敷布団の上にごぽりと体液が溢れ落ちた。それを押し出すことも厭わず、一度萎えた膣内のものが大きさを増していく。円を描くような動きに変わると、女は耐える間もなく中をキュッと締めて果てた。
 力の抜けた手足から五条が身体を起こすと、なまえは縋るように手を伸ばした。それに応えるように今度は彼が彼女の背中に腕を回す。
「今度はなまえが上に乗って」
「っふ、……あっ、あっ、ああん!」
 自重でさらに奥へと沈むが、なまえが慣れるのを待たず、五条が下から突き上げる。腰が砕けてしまいそうで、女は上体を起こそうとするも、きつく抱きしめられているので叶わない。
 手練手管で男を虜にする遊女のはずだが、なまえは今晩どうしようもないくらいに乱れていた。五条を持て成す余裕もなく、身体を揺すられる度に、あられもない喘ぎ声を彼の耳元で晒し続ける。彼女はそれくらい五条から激しく求められていた。
「っ、出そう」
「あんっ、痛っ、ああっ!」
 五条に首を噛まれているとなまえが気付いたのは、自分も達して彼の射精が終わりかけの頃だった。
 一人の男のための遊女ではないので、客に傷痕を残されるのは大変遺憾な事である。しかし今の彼女は痛みの余韻を感じながら、彼の噛み痕を大層愛しく思った。



 風のない夜なので、部屋はしんとした冷えを取り戻しつつある。
「こんな場所、抜け出そう」
 素肌に近い格好で抱き合いながら五条が言った。しかし男の胸板の前で、女は首を横に振る。
「ここは檻です。足抜けした遊女の末路は決まっております。それならば、あなたが去った朝に私は命を絶ちたい」
「……なまえは本当にいい子だね」
 実直な瞳を潤ませ、五条のはだけた着物の襟を握る彼女の頭を、彼はそっと撫でた。そして、血が出てしまいそうなくらいきつく握られた女のこぶしを解きながら、彼は続ける。
「そこまで覚悟があるのなら、一緒に黄泉の国へ行こうか」
「あなたは私と心中する気ですか」
「そうだけど」
 大きく目を見開くなまえに対し、五条は薄暗闇のなか不思議そうに首をかしげる。これは彼にとって当たり前の選択なのだ。
「ていうか、ごめん。先手を打ってある。君が昨日最後に食べた赤い果実、あれは黄泉の国で成ったザクロだったんだ。ヨモツヘグイって知ってるかな。僕はどんな手を使ってでも、最初からオマエを連れていくつもりだった。……優しいなまえも、さすがに怒ったかな?」
 突拍子もない話に女は驚いたものの、穏やかな表情で首を横に振る。彼を最後の男にすると、なまえも決めていたからだ。
「怒りませんよ。でも心残りがあります」
「何?妬けるんだけど」
 先程までのシュンとした表情とは一転し、男は感情をそのままに、整った顔を歪ませる。
 けれど、なまえも怯まない。同じ体勢のまま、彼の瞳を射抜く意思の強さがある。
「行方知れずの私の猫です。あなたに似て、真っ白な毛と青い目を持った聡明な子です。私に乱暴した客に飛び掛かって、怪我を負っているはずなのに未だに姿を見せないんです。それだけが私心配で」
「それなら大丈夫。これからはずっと一緒だから安心して」
 月灯りを背にしている五条の影になまえはすっぽりと覆われた。
 五条は大きな手のひらを、彼女の背中の上から下まで丁寧に往復させる。普段なまえが膝の上に乗った悟にしてやるのと、同じ動作であると気付くのには、そう時間が掛からなかった。
「悟?」
「なう」
 髪と同じ色の長いまつ毛を伏せ、彼は穏やかに笑った。


 翌朝、起きてこないなまえを見に禿が座敷を訪れると、布団の中には女物の着物だけが残っていた。
 そして五条が払っていった金が、小石に変わったのと同時刻に、彼女の私室の押入れの奥で、白い猫の死体が見つかった。
後編