うららかな春の陽気溢れる休日。のそのそと起きてきた恋人に、私は声を掛ける。壁時計が示す時刻は、午前十時五十六分。世間的には「おはようございます」から「こんにちは」へ移行する時間帯である。
後ろ髪を大きく跳ねさせ、スリッパも履かずにぺたぺたと足音を鳴らす悟は、キッチンに足を踏み入れ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。そしてペットボトルのキャップを片手で回しながら、もう反対の手でラックから私の愛用のグラスをひとつ抜き取る。指が長いから可能なのか、器用さと力強さを兼揃えている故の技なのか。それをただただ見つめ、最初の挨拶を未だ無視され続けている私に、ここでようやく悟は顔を向けてくれた。
「なまえさあ、僕が何時に帰ってきたか知ってる?」
「四時半頃だっけ。玄関の音って響くよね」
「……起こして悪かったね」
整った顔を歪ませ、グラスに水を注ぎながら彼は言った。
「すぐに寝たから大丈夫。そのあとベッドに潜ってきたのも気づかなかったくらい」
「はは、がっつりと口開いて寝てたもんね」
本当に負けず嫌いな性格である。すぐに言い返してくる。それに、くつくつと笑いつつも、並々注いだグラスの水を絶妙にこぼさないのも憎らしい。
せっかく注いだミネラルウォーターに口をつけないまま私の方へ近づいたと思ったら、キッチンカウンターを回って、彼はダイニングチェアに腰掛けた。テーブルに、肘とともにグラスも置く。なぜか飲まない。
「……で、結局悟は何時に寝たの?」
「帰宅してカップ麺食ってそこから風呂追い炊きして、入って、着替えて、髪乾かして、歯磨いてで朝の六時だね」
「ワオ」
「徹夜明けだし、そりゃこんな時間まで寝てるよ」
自分の行動を指折り数える姿に、思わず笑いそうになった。だって大袈裟なんだもの。こうして寝る間も惜しんで全国飛び回る姿は、気の毒だとは思うけど。
「それより、どっか行くの?」
「え?」
「その格好」
今度は彼が私を指差す。そりゃそうだ。季節先取りの薄いベージュ色のスプリングコートを身に纏っていたら、いくら寛いだ体勢でテレビを見ていようと誰だってそう勘違いするだろう。
ここで勿体ぶっても仕方がないので、正直に告げよう。なんてことない話で、支度を整え部屋を出ようと思ったら、なんとなくつけていたワイドショー番組に好きな俳優さんが出ていて、この格好のままつい見入ってしまっただけである。
悟も起きてきてしまったことだし、いい加減出掛けようと思う。コートのしわを気にしながら膝を抱えるように座りなおし、私は再度口を開く。
「食べるもの何もないから、買い出しに」
「僕もひとつ貰ったけど、まだ棚に五つ同じ蕎麦のカップ麺あったよ。なまえあれ好きなの?」
ダイニングチェアで長い脚を組んだ彼は、床に座る私を見下ろし、なんというかこちらからしたら台詞とともに見当違いな表情を向ける。
私は首を横に振った。
「好きだけど。いや、そうじゃなくて。……悟が家にいるなら、何かお昼に作ろうかなと思って」
「へえ」
「手軽なもので、何かリクエストがあるなら」
「じゃあなまえのナポリタンが食べたい」
「わかった。ベーコンとウインナーどっちがいい?」
「ウインナー」
「了解」
ようやく重い腰を上げると、同じ部屋なのになんだかすっと冷えた気がした。二十分ほど窓側に向けていた後頭部と背中は、まるで石油ストーブにあたっていたような、じんわりとした熱を持っていた。名残惜しいが、春の陽射し恐るべし。
悟と向き合う形で置かれている、もうひとつのダイニングチェアの背からバッグを取って、私はそれを自分の肩にかけた。
背を向けたまま彼にいってきますと告げ、玄関へと続く廊下へ出ようとドアに手を掛ける。
だが、なぜか止まってしまう。いや、理由は明確だ。大きな手が私の手首に重なって、力任せに動きを止めたからである。
密着した身体を無理矢理振り返って、私は問う。
「何?」
「いや、ちゃんとエコバッグ持ったかなと思って」
「ご心配なく」
冷ためにそう言うと、キュッと握られた指が緩んでいくのを実感し、私は振り払う形で扉を押した。
廊下へ出たところで後ろ手でドアを閉めようとするが、またしても彼が邪魔をする。
キッと睨みつけて振り向くと、不思議とご機嫌な大きな身体が挟まっていた。
再び私が「何?」と問う前に、悟はニッコリと笑って言った。
「お見送り」
「それはどうも」
大した距離もないまま、玄関フロアまでたどり着いた。
たった数センチ下の土間に揃えられた、ローヒールのピスタチオ色のパンプスに私は足を通す。最近のお気に入りなので、ずっと玄関に出しっぱなしだ。
しゃがんだついでに、悟の革靴も揃えておく。三十センチ近いそれに、手入れとかいらないのかなあと毎回思う。よくわからないので私はしないが、頼まれたら防水スプレーくらいは吹きかけてやってもいい。
その私の背をピタッとマークするように付いてきた男はというと、一歩引いた位置でそれを眺めていた。茶々もいれず、背後からじっと見られるだけというのは、非常に居心地が悪い。
「じゃ。いってくるから」
私はさっさとそこを離れ、外に向かった身体を半身だけねじって彼に言った。
「待って」
「どうしたの?」
「……」
フロアぎりぎりの位置に立つ悟は、口をつぐんでしまう。仕方なく私も体を向き直す。さっきから一体何なのだろう。用件があるのならさっさと言え。
先程までの強引さがないため、互いに見つめ合う私達。妙に相手の口角が上がっているのが気になる。まるで期待を込めたような、何かを待っているような——、もしかして。
「……口紅ついちゃうよ」
「どこに行くわけでもないし、別に良いよ」
恋人との単純な連想ゲームに、どうやら私は正解したらしい。
少し高い位置から体を屈める彼。こちらとら、いってきますのキスなんて初めてである。
しかし折れないことは知っているので、私が諦めた。目を閉じ待ちわびる人物の頬に手をあてて、そのまま顔を寄せた。熱い私の唇と、それより少し温度の低い彼の薄い肌が重なり合う。
チュッと音を立てて顔を離すと、驚いたように見開かれた悟の瞳とぶつかった。求めていた唇の隣に、しっかりついたキスマークも確認済みである。
「まあ記念に一回鏡見てみてよ。いってきます」
私は家を出た。春の生暖かい風が、前髪をさらった。