右も左もない平坦な道をただひたすら、ひたすら前へと歩いていく。後ろは振り向かない。過去は過去でしかなく、先を見通せる道では何の判断材料にもならないからだ。



 電柱に常設された防犯灯に頭のてっぺんを照らされながら、私はスマホの地図アプリと睨めっこをしていた。蛍光灯がアスファルトに等身大よりも長い影をつくり、夜の春風が立ち止まったままの私の前髪をさらう。
 ようやく長い冬が明けたというのに、にっちもさっちも行かない状況と己の不甲斐なさに、私は溜め息をついた。
 たったそれだけの事といえば、そうなのだが……。約束の時間から、かれこれ十五分遅れようとしているのに、どうしても目的地に辿り着かないのだ。
 何度か同じ道を行き来しているものの、一向にそれらしき建物がない。画面上は幾度も設定した住所に到着しているが、今も私の目の前には表札を掲げた一軒家があるだけだ。ガックリと肩を落としたくもなる。
 それでも他に頼るものがないので、同じ道に見逃しがないかを再度確認するまでで。心許ないナビゲーションシステムに従い、結局私は人通りの少ない夜の住宅街を、もうひと回り歩く事になるのだった。

「なまえ、こっちこっち」
 一本北の道路に出たところで、私は暗闇から日常会話とさほど変わらない声色で呼び止められる。振り向くと、全身黒の私服姿の彼がひらひらと手を振っていた。
 その瞬間、私の胸にじわりと温かいものが広がる。情けないが、きっと迷子の子どもが母親と再会した時と同じような気持ちなんだと思う。スプリングコートの裾を翻し、私は彼に駆け寄った。
「遅くなってごめんなさい」
「こっちこそ駅まで迎えに行けなくてごめんね」
 その言葉に首を横に振ると、悟さんは私の肩に手を置いた。そのままそばに引き寄せられたので彼を見上げると、優しい笑みを浮かべていた。見かねて外へ様子を見に来てくれていたにもかかわらず、遅れた私に対して、不満や怒りは一欠片も感じない。それがさらに私の中の罪悪感を大きくする。
「さあ、入ろっか」
「ありがとうございます」
 限られた時間を無駄には出来ない。大きな手に促されるようにして、私達は一見日本家屋のような小料理店の扉を引くのだった。

「こんなに可愛らしいお嬢さんに、長い時間夜道を歩かせてごめんなさいね。分かりにくかったでしょう。けど、無事に来てもらえて良かったわ」
 客入りの時間帯にもかかわらず、気の良さそうな女将は間を置かずに出迎えてくれた。悟さんと同様に遅れた私に対して、嫌な顔ひとつしない。この人が客商売の鏡だとしても、世の中は案外優しい人間で溢れているのかもしれないと思った。
「さあさ、上がってくださいな」
 女将さんが膝をつく。暖簾も提灯も出さず、隠れ家をコンセプトとしている小料理屋とだけあって、一軒家のような三和土で、悟さんと私は靴を脱いだ。
 通された座敷は完全に独立した個室で、漏れ出す声の少なさから、きっと並んだ襖の数しか客を取っていないのだと私は推測する。彼が今夜の店をここに決めた理由が、なんとなくわかった気がした。
 向かい合って座ったすぐに運ばれてきたお通しの三連皿は、見事に旬のものばかりで。ホタルイカの酢みそ和えを真ん中にして、右に菜の花のおひたし、左にタケノコの煮物が並んでいた。
 日本酒は知らないので私は生ビール、悟さんはノンアルコールビールのグラスで乾杯をする。泡を喉の奥へ流し込み、さっそく箸をつけると、どれも家庭料理で出るものなのに、とても上品な味がした。
「てっちりが食べ納めなんだって」
「私フグはあまり食べたことがなくて」
「そんなにクセがないから案外食べやすいよ。なまえも好きだと思う。多分雑炊で〆てくれるから、ご飯ものはなくていいかな」
 女将を呼ぶと、ほとんど品書きを見ずに、悟さんは次々と料理名を口にした。こういう時、私とは全く違う世界で彼が生きてきたのだと実感する。
 襖が閉まると、彼は熱のこもった目で私を見据えて、こう言った。
「やっと話がまとまりそう」

 悟さんには、私と出逢う前から将来を約束している女性がいる。『させられた』と彼は強調するが、今の悟さんの気持ちが私にあると確信を持っているので、経緯はどうでもいい。
 良い報告が出来そうだから食事でもと、誘われた時点から今夜までずっと、私は期待に胸を膨らませていた。大学の春休みは長くて、色んな予定を入れてあったのだけれど、この数日間はどこで何をしていても落ち着きがなく、本当に文字通り何も手につかなかった。
 野菜餡の下の鰆の骨を取り除きながら、彼は言葉を続ける。そのなかで、こんな風に人目を気にして逢うのも、あと数回になりそうと聞いたとき、私は心の底から「嬉しい」という言葉が湧き上がった。その様子を見て、悟さんは私以上に頬を綻ばせた。
 勧められたまま、平気で美味しい料理を口に運ぶ自分自身が恐くなった。相手がいる人を好きになったうえ他人のモノを奪うのに、私自身これほど躊躇がない人間だと思ってもみなかったからだ。



 満腹以上に心も満たされた私が、ハンガーからスプリングコートを外していると、席を立った彼が後ろから腕を通して着せてくれる。
 そして息が掛かるほど近く、私の耳元で囁いた。
「駅の近くにホテル取ってあるんだけど、なまえも来る?……僕は朝まで居れないかもしれないけど」
 振り向くと、腰を屈めたままの悟さんの顔がすぐそばにあった。そのまま引力で惹かれあうかのように唇が重なり、斥力で反発し合ったのかと思うほどすぐに彼はリップ音を立てて、私から離れてしまった。
 別れ際に限って、もっと欲しくなるようなキスをする狡い大人の彼が心底憎く、また愛おしい。けれど、私は首を横にふった。
「ゼミの女の子達とごはんって言ってあるから、今日は帰る」
「残念、じゃあまたの機会だね」
 生理だから今夜は出来ない、つまりは泊まってもセックス出来ないという事実を面と向かって言っても、きっと悟さんは今と同じ台詞を口にするのだと思う。それでも私は、彼と過ごさない選択に他人を理由に使った。私も私でズルいところがある。
 私がごちそうさまでしたと告げると、座椅子に戻った悟さんは、座ったままじゃあねと手を振った。
 襖をあけて、私だけが廊下へ出る。恋人と飲食店やホテルを同時に出られない事も、今じゃもう慣れっこになってしまった。
 可愛らしいお嬢さんなんて呼ばれた時点で、女将さんはそれなりに理由を察していたかもしれない。そのおかげか、出口まで誰にもすれ違わないまま、私はひとり店をあとにした。



 最寄り駅から自宅までの帰り道。母校の小学校の前を通ると、少し前までつぼみだった桜が満開になっていた。街灯に照らされただけで、本格的なライトアップではないものの、夜桜は白く幻想的に輝いていた。
 気がつくと、私は散り始めの花びらとアスファルトの上をスキップで駆けていた。もうハタチを過ぎているのだ。こんなこと、普段はしない。
 けれどほんのりアルコールの回った頭は、とても愉快なメロディーを奏で続けている。今なら苦手な鼻歌まで口ずさんでしまいそうなくらい、気分が良い。
 朧月が鈍く光る夜空を見つめながら、こんなに幸せな夜があっていいのかと、私は神様に尋ねた。もちろん返事はかえってこなかった。



 ようするに私は浮かれていたのだ。
 だから同年代と思しき、しかし面識のない若い男に車内に引き摺り込まれた時も、とっさに悲鳴を上げることが出来なかった。
#前編