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背後から低速度で近づくバンに全く気付かないまま、桜が舞う朧月夜に浮かれていた私は、半開きのスライドドアから突然現れた何か(きっと男の手だったのだと思うが、速すぎて見えなかった)に、二の腕を掴まれた。
そしてその勢いのまま身体丸ごと車内へと引き摺り込まれ、トランクと一面にしてある後部座席へと、無防備な格好で倒れる。
その際に顔や手を擦ったようだが、自身に起こったフィクションのような状況の処理に、私の頭が追いつかず。そのときは傷を負った痛みよりも、ただただ呆気にとられるばかりであった。
闇夜のなかで起き上がれないままに、私は間抜けな瞬きを繰り返す。運転席とはカーテンで仕切ってある、そんな事だけは視覚情報として入ってきた。肝心なところを見落とし、どうでもいい事だけはいつまで経っても覚えている。だから私は鈍い人間なのだ。
恐怖を実感する時間も与えられず、黒い影が私を覆った。
「下手に騒ぐなよ」
その言葉とともに悟さんとは違う、太い腕が私の上半身を這う。突然訳もわからず拉致された事実以上に、そのことにゾッとした。けれど、それに悟さんのような慈しみはなく、ただ単に私を拘束するために回されただけであった。
さらにもう片方の手で首元に突きつけられたのは、薄暗闇のなかでも鈍く光るペティナイフのような小さめの刃物で。実物を見たこともない拳銃などよりも、一介の女子大生にとっては脅しの道具としてずっと現実味があった。
ここでようやく皮膚が捲れているであろう頬と手の甲に、私はヒリヒリとした痛みを感じだし危機感を覚える。また足元にも人影が見えて、すでに自分ひとりではどうしようもならない状況に陥っているのだと、私は今更ながらに理解した。
「……なにが、目的ですか」
絞りだすような声で、私は男に問う。通常の速度を取り戻したであろう車体の揺れとともに、窓からの街灯が照らし出す彼の素顔は、全く覚えのないものだった。だから目的はお金であってほしいと、私は切に願った。
女子大生といえば聞こえはよいが、いかんせん私は貧相な身である。悟さんは褒めてくれるが、可愛い顔でもないし、気品や強かさを持つような美しい女性とはほど遠い。
つまり始めから男達にとって女の容姿に価値なんてなく、ひ弱そうだからたまたま夜道をひとりで歩く私が選ばれた。そう考えて、財布にある現金全てを差し出して貞操が守られるのならば、安いものである。
頭だって下げるし許しも乞う。プライドよりも、好きな人ともう一度会うために。私は自分の身の安全を確保しなければならない。
悟さんと一緒のときに、現金を出したことなど一度もないが、毎回素敵な場所に連れて行ってくれるので、足りないのは承知で一万円札三枚は最低でも必ず入れてある。
それで満足してもらえるとも思えないが、お金とは全ての代償と成り得るものだ。この状況では例え奪われるだけだとしても、まだ出せると嘘をチラつかせれば、多少の交渉材料にはなるだろう。そう期待を込めて、私は男の返事を待つ。
「君にひとつ約束をしてほしくて」
「約束、ですか」
質問に予想外の回答をしたのは、同時進行で私の靴を脱がせ、両足首をまとめてガムテープで巻いている違う男だった。
上半身は動かせないので、目線だけそちらに向けるものの、逆光であろうとなかろうと、やはりこの男の姿にも見覚えはない。
「しばらく車で走るから、その時間内に誓ってくれたら——、僕らの業界じゃ縛りっていうんだけど。苗字なまえさん、君が僕らの雇い主が出す条件で縛りを結んでくれたら、さっきの場所まで帰すよ」
「……条件」
意味を飲み込む過程で、私は言葉を繰り返す。
対話を持てる事は幸いだが、とても私に都合の良い方向へ話が進むとは思えない。彼らが何者か分からない私がフルネームを知られている時点で、少なくとも情報がこちらの有利に働くことはないだろう。妙に冷静になりつつある頭が、今になって警鐘を鳴らし始める。
そんな私の様子に反して、男は変わらないトーンで続けた。
「簡単なことだよ。君が直前まで会っていた男の気持ちを、然るべき相手のところに返してほしい。それから二度と会わないと誓ってくれってさ。甘いだろ?けど、それが僕らの雇い主の意向だ」
ドクドクと心臓が波打つ。男がさし示す人間に、私が思い浮かぶ顔はひとつしかない。
「……直前までって、私は一人で食事をして店を出たはずですが」
あのとき店の前には車一台どころか、ひとっこひとり居なかったはずだ。
店内でも全て女将さん一人が料理を運んで下げてくれていたので、疑いたくはないが悟さんと私が同じ食事席に居た事実を知るのは、彼女ただ一人だと思う。
「とぼけるつもり?」
「そんな、私は——!」
すると、思わず前のめりになった私を押さえつけるかのように、背中側の男が腕の力を強めた。密着が増した不快さと胸の苦しさに、私は顔を顰める。怖れよりも嫌悪が先立つのは、私に最愛の人がいるから、そう感じるだけなのだろうか。喫煙者独特の甘苦い体臭が、今になってやたらと鼻につく。
けれど、さらに追い討ちをかけるかのように、彼はわざわざ私の耳元に寄った。そして生ぬるい息を吐きながら、ねっとりと悪魔みたいに囁いた。
「お前じゃないって結論は出てたのに、今夜に限って店の前まで出迎えに来るんだもんな、五条悟」
その瞬間、絶望が全身を駆け巡った。自分の愚かさを、これほど呪った日はない。
これまでの悟さんの努力を、私が全て無駄にしてしまった。そう思った。
そしてなぜか彼の困ったように笑う顔が思い浮かんだ。私が一番好きな彼の表情である。
「一般人の君に詳しく話すつもりはないけど、カラスって夜目もきくんだよね。下手な監視カメラよりずっと有能だよ。 で、素直に従ってくれないなら、お約束のための頭と口以外好きにしていいって言われててさ。僕らは君に暴力で訴える事も、二度と彼に抱いてもらえない身体にする事も、やぶさかではないんだけど、どうする?」
足元にいる男はそう言いながら、私の脚をなぞっている。けれど鳥肌が立つような行為も脅しの言葉も、今は頭に入ってこない。
『君との関係を公に出来る日まで、あと少しだから』
今夜悟さんに、私がもらった言葉のひとつである。
待ち合わせについては今日の今日まで徹底されていたのに、私が道に迷ってなかなか到着しないから、悟さんは心配して公道まで出てきてくれたのだ。当たり前のような、それでいて私だけに向けられた彼の特別な優しさである。
それが脅しの材料として使われる事に、私は心の底から腹が立った。また、今の私達にはそれすら許されないのだと思うと、悔しくて泣きたくなった。
けれど男は、私が怯えていると思っているのだろう。諭すように続ける。
「君は奪ったものを返すだけなんだから、簡単な条件だろ」
「……奪った?」
反芻しようが、到底理解には及ばない。男の台詞は私の炎に油を注いだ。それは瞬く間に身体中を覆う熱となり、原動力となる。
私はずっと顔も知らない悟さんの婚約者が、妬ましくて仕方がなかった。だけど、憎かったことは一度もない。きっと気持ちが自分に向いていると、優越感を持っていたからだと思う。
私にとって、心とは本人の意思を持って動かすものであり、決して奪ったり返したりするものではない。許されない恋だと知ったあとも、私の悟さんへの気持ちは変わらなかった。それに彼が応える形で、私達は結ばれた。
私は彼を愛しているし、彼は私を愛している。それだけは揺るがない真実として、過去も未来も関係なく、現在の私自身が守り通さなければならないと思った。
敵意を持って、私は正面の男を睨みつける。
「だから!私知らない!」
抵抗と捉えられたのだろう。刃物がスッと私の頬を掠った。時差をおいてヒリヒリとした痛みが走り、首筋に生暖かいものが流れる感触があった。きっと切られて血が出ているのだろう。
「オイ、下手に騒ぐなって最初に言っただろ!」
けれど、背後の男の乱暴な行為と言葉に、痛みよりも怒りを抑えるために、私は唇を噛み締める。
「だから誰とも会っていない!」
この人達によると、私はどちらを選ぼうと、どの道彼とはもう会えないらしい。
過去には縋らないと決めているはずなのに。それなのに、今夜悟さんが私を心配してくれたという事実が最後心に残った。
ただそれだけで、このままつまらない意地を張って、苦痛や屈辱を味わって。二度と彼に抱き締めてもらえない選択を、私はしようとしている。