赤信号で車が停車したとき、私を拐ったバンのスモークガラス越しに、街路に植えられているであろう桜の木が再び見えた。
 桜の花言葉はいくつか存在するが、そのなかの『純潔』という花言葉を私は思い出す。
 私は悟さんに初めてを捧げた訳ではなかったが、終わったあとベッドのなかで「こんなに気持ちいいセックスは生まれてはじめてだった」とお世辞ではないけれど、彼に喜んでもらうために、私は気持ちをわざわざ口にして伝えた。
 すると彼は「前の男のことなんて全部忘れるくらい、毎回気持ちよくしてあげる」と、白いシーツの上で冗談ぽく笑って言った。
 その時は私も笑い流したけれど、それは二回目に寝たときから全て現実となる。悟さんと身体を重ねるたび、比例するように愛は重量を増していき、得る快楽は依存性の高い薬物のように、もっともっとと彼を欲する。未だにその天井が見えないものだから、私は悟さんに抱かれたあと、いつも底知れぬ不安を胸に抱くのだ。
 だが、それを彼に伝えたことはない。口にした瞬間、炭酸水の気泡がはじけるように、何か小さな終わりを迎えてしまうような気がして、私はずっとひた隠しにしている。



「テメェ何回も同じこと言わすなよ」
「っあ……!」
 反抗心をみせたことにより、うつ伏せになるように首根っこを掴まれた私は、そのまま床へと押し付けられる。その拍子に切られた所の傷が裂けたのか、さらに頬の痛みが増した。
「腕も巻いとけ」
「了解ー」
 腰の方にも体重が掛かり、先ほどまで足元にいた男が移動したのだと分かった。そして手首を後ろに一纏めにされ、抵抗を示したものの足首と同様に、服の上からキツくガムテープを何重にも巻かれてしまう。こうなると逃げようにも首を振ることと、身を捩ることしか出来ない。
 腰に重さがなくなると今度は後ろ襟を摘まれ、サイドドアに凭れかかるよう、私は強引に座らされた。思わず表情が歪む。その際に背中と後頭部を打ちつけのだ。落とされるようにされたので臀部も痛んだ。まるで私が等身大の人形のであるかのような、乱暴な扱いである。
「本当に呪力の呪の字もねぇ、パンピーなんだな」
 しゃがんで顔を近づけた男は、薄暗闇のなかで私に向かってそんな言葉を吐いた。
 悟さんから、彼自身を語るにあたって少しだけそういう話は聞いていたが、私にはそれらの事象と無縁でいてほしいので、敢えてこれ以上話さないと、そのときの彼は言っていた。そういう言い方をされると、嫌われたくない私が追求出来ないと知っているのだから、全く狡い男である。
「けど、そんなパンピーでも手っ取り早く殺せないのは、五条悟相手だからでしょ?ほらあのじいさんが、五条悟なら死後なんたらこうたら言ってたじゃん」
 再び私の足元に移った男は、そんな物騒なことをつぶやく。私の命が軽んじられていることよりも、彼らにとっても悟さんが特別な存在だったことの方に私は驚いた。悟さんは言いたがらなかったが、すごいのは家柄ではなく、魅力あふれる彼自身で正解だったようだ。
 そのあと男は「スマホの電源切っとかなきゃ」と口にしながら、私が悟さんからプレゼントしてもらったボストンバックの口を勝手にあけて、ゴソゴソと中を漁りだした。
 あったあったと一瞬明るい光が彼の顔面を照らしたが、車内はすぐにもとの暗さを取り戻す。
「それより思った以上に、この子強情だよ。五条悟のただの可愛い子じゃなかったみたい。どうするよ?」
 その声は、楽しみやワクワクといった期待が隠しきれていない。この人達とは一生分かり合えないと、私は強く思った。
「とりあえず溜まり場連れてくか」
「こんだけヤっても、口を割りませんでしたって?」
 ゲラゲラと下品に笑う二人の男の奥で、運転席の方からも、俺にも回せよという声が聞こえてきた。
 これから起こる事を思い、私は目を閉じる。血液の生臭い鉄の味は、自分で噛み締めた唇から出たものだと思う。未だに頬から流れ出ているものは、全て首を伝っている。
「なあオマエ、どうやって五条悟を誘ってんの」
 下衆い男は太い指で、無理矢理に私の顎を持ち上げる。意思を固めた私はもう一度くちびるを噛んだ。

 その瞬間、まるで雷でも落ちたような、とてつもなく大きな轟音が鳴り響いた。
 目を開けると、車の前部分、運転席と助手席が吹き飛んでいた。後輪は残っているので慣性の法則に従って、私達のいる後部車両は勢いを殺して進み続けるものの、残った全員がこの状況に対応しきれていない。
 先のものほどではないが、ガンッという大きな音を立てて車が停まった。
 大きくひらけた車体に足を掛けるシルエットは、間違いなく私の最愛の人である悟さんのものだった。



「なまえ、五秒だけ目つむってな」
 彼のその言葉にしたがった次のときには、私はもう悟さんに横抱きにされていた。後ろ手に拘束されているため、私は彼の身体に腕を回せないが、しっかりと筋肉のついた腕が私を包んでくれている。
「今夜は君と過ごせない時間を悔いてばかりだよ」
 頭をくぐらせるようにして車内から出た彼の両足がトン、と地面についたとき、溜め息とともに聞いた言葉がそれだった。
 珍しくサングラスをしていない青い瞳は、私に冷酷を連想させるには十分だった。
「ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
 悟さんの胸板に切られた頬を寄せると、堪えていた涙が溢れ出てきた。彼の求める言葉はそうじゃないと分かっていても、私が招いたことに違いはなくて、申し訳なさで胸がいっぱいなる。
 けれど、こうして再び悟さんの体温を感じられたのだから、それが安堵に置き換わるのは当然だった。二度と彼に抱きしめてもらえない未来を想像した自分が嘘だったかのように、今は片時も悟さんと離れたくない。
「君を責めてるんじゃない。なまえに夜道をひとりで歩かせた、僕自身に腹が立って仕方がないんだ。このまま帰せないし、ホテル行くよ」
「あっ、かばん、くつも」
 とっさに呟いてしまった言葉に、彼は進みかけた歩みを止めて、くるりと踵を返す。
 すると、私のものではない血痕が飛び散った無惨な車内の様子が視界に入った。



 初めて悟さんとエントランスから一緒に足を踏み入れたホテルは、いつもよりもハイクラスな三ツ星ホテルだった。料亭ではああ言っていたが、あの話のあとだったので、はじめから私と過ごすことを想定して取ってくれていたのだろう。
 堂々と出来たら良かったのだが、頬の血は止まっているものの、切り傷と流血痕が残っているため、結局私は案内を受けた部屋までハンカチで顔を隠すようにしていた。
「まずは一緒にお風呂入ろ」
 ホテルマンが部屋をあとにすると、悟さんはすぐに私の手を引いた。力の入らない足は、それに連られるように動き出すも、私は大事なことを思い出し、その場で立ち止まる。
 振り返った悟さんは再び私を抱き上げようと腕を回すが、手を繋いだままなので、私は慌てて首を振ってそれを制する。
「あの、私生理で」
「僕は気にしないから」
「私が気にするから、お願い」
 そう告げると、渋々といった様子で彼は手を離した。
「シャワーだけしたらすぐに出てきてね」
「うん」
 ずっとそばに居たい気持ちは、私だって一緒だ。

 パウダールームの鏡に映った私の顔は、切りつけられた血痕だけでなく、擦り傷でも何ヶ所か赤く腫れて酷いものだった。黒だったので目立たなかったが、服を脱ぐときに襟に血液が染み込んでしまっているのもわかった。シャワーを浴びていると、身体中いたるところが沁みた。実際腕や足に顔と同じような擦り傷が出来ていて、他にも今夜ついたであろう打ち身もたくさんあった。
 バスローブを着て部屋に戻ると、悟さんが入れ違うようにそちらへ向かい、私がドライヤーをあてている間に出てきた。髪は完全に乾ききっていなかったが、私はそれを止めた。張り詰めた糸となったさみしさは、もう本当に我慢の限界だった。
「なまえおいで」
 お揃いのバスローブを着た悟さんの腕のなかに飛び込むと、彼は強い力で私を抱きしめた。
 そのままベッドに倒れて、熱い口づけを交わす。執拗に絡めとろうとする舌に翻弄されながら、こうして互いを求め合える事がどれほど幸せなことなのかを、私は改めて知った。
 今宵は彼とずっと触れ合っていたい。それどころか眠って目覚めたときに彼の姿が見えなかったら、きっと私は泣いてしまう。いつも彼に抱かれたあとに感じる喪失感が、今日は先に襲ってくる。
「もっとしよ」
「ん、……あう、……ん」
 キスを続けながら悟さんがバスローブを肩から落とそうとするので、私はそこに手のひらを重ねる。ここには押さえつけられた時についた、手形のような痣が大きく浮き出ている。だからこれ以上私が負った傷あとを、自身を責める言葉を発した彼に、見せたくなかった。ちゃんと治るはずだから、知らずにいてほしい。
 けれど、悟さんは私の肩を大きな手でギュッと掴んだ。私は痛みに顔を顰め、彼の唇に歯を立ててしまう。
 すると悟さんは口づけをやめ、私を見下ろした。身体が離れると、彼が汗を滲ませるほどに上気していることがわかった。
 はだけてしまったバスローブから、赤紫色に染まった素肌が出ていることに気がつき、それを隠そうと指を伸ばすも、悟さんにシーツへと縫いつけられてしまう。
「本当全部夢だったら良かったのに」
 彼は表情のない顔で、そう告げた。
 今夜私のせいで人が三人亡くなっていることも、同じように春の悪い夢だったら良かったのにと私は思った。
#後編