九歳の頃。当主の居る一番大きな禪院の屋敷で、親戚のみんなと遊んでいるとき。直哉は突然、私の左手薬指に指輪をはめた。なんの脈絡もなく手首を掴まれて、そうされたものだから私は呆然としたまま、しばらくその意味を理解出来なかった。
「やるわ」
 一方行動をおこした直哉はというと、不要な物を渡すときのように、言葉も態度もそっけなかった。まさに先刻、嫌いなおかずを右隣りにいた私の皿に移したときと、全く同じ口調だった。
 私は自身の左手薬指を見る。無理矢理与えられたものは、要らないとまではわざわざ口にしないが、自ら欲するようなものではなかった。
 けれど直哉の機嫌を損ねる面倒ごとを避けるため、私は貰ったものに対し、とりあえず彼にお礼を告げる。
「ありがとう」
 指輪自体は何の価値もない、中心に宝石を模したものが装飾された、プラスチックのただのおもちゃだった。私の年齢から見ても、もっと幼い子がつけてるように思える、幼稚なものである。
 自身の左手を光にかざすと、薬指だけが安っぽく鈍い光を放っていた。本家に足を踏み入れるため、それなりに立派な着物を着付けられていたので、今の私にはとても不似合いである。
 直哉が別の子と話し始めたところで、私はそれ外そうとした。指輪をはめられたときは何ともなかったのだが、時間が経つにつれて自身の左手がひどく重くなってきたのだ。気分的なものだけではない、不快感に該当する感覚が、指輪をしている左手だけに出現する。
 しかしどれだけ力を込めても、指輪は第二関節に引っ掛かって抜けなかった。はめられた時は何のつっかかりもなく、するっと指の付け根まで落ちたはずである。
 私が右手の親指と人差し指を使って、それを必死に取ろうとしていると、次第に薬指の先が赤黒くなってきた。血液の循環を、プラスチックの指輪が妨げているからだろう。そういう状態をうっ血というのだと、のちに知った。

「あかんあかん」
 言葉のあと、黒い影が私に覆いかぶさる。何の足音も立てずに人に寄ることが出来る子どもは、ここには直哉しかいない。
 彼は同じ年頃であっても、私よりも幾分か大きな手を、真っ先に変色した薬指に重ねた。そして冷たい指先は軽々と指輪を引き下げ、私の努力が何の意味も成さなかったと告げるように、元の位置へと戻してしまう。
「自分じゃ外せへんで」
 目線を上げると、彼は薄ら笑いを浮かべながらそう言った。直哉は先ほどとは一転して、指輪を戻したあとも慈しむように、自身の長い指を私に絡める。
 指の色が正常に戻るにつれて、私は顔からどんどん血の気が引いていくのが、自分でもわかった。彼の人相から蛇を連想し、愛しく思われているというよりは、捕らわれているような気分になったからだ。逃げる糸口を探すうちに、捕食という単語が頭に過ぎる。
 直哉は高貴であっても気品はない。きっと大きく口をあけて、人を平気で丸呑みにする。指輪の上からギュッと力を込められると、薬指が強く痛んだ。
「えらい顔色悪いけど、大丈夫?」
「っ、平気」
 私は彼の手を無理矢理振り払い、逃げるようにして自分の親元を目指した。



「抜けなくなった」
 過程は口にせず事実だけを告げると、母は両目を見開き、後ろにいた使用人は口を両手で覆った。
 二人の反応で、この指輪は私達が身を置く世界の、そういう類のものなのだと私はようやく悟った。
「……絶対に無理に外しちゃだめよ」
 腰を折り、私に目線を合わせた母は両肩に手を置いて、言い聞かせるような低い声で言う。食い込む指と痛む肩が、事の深刻さを物語っていた。
「……お父さんなら取れるかなあ」
「お母さんからも相談してみるわ」
 言葉が終わると、私は何年かぶりに母に抱きしめられた。昔は母の華奢な身体であっても全身包み込まれていたが、今は私が成長したせいか背中に手が回っても、その細い身体はやけに頼りない。同時に、今にも泣き出しそうな親の悲しい顔なんて、見たくなかったと私は思った。
 同じ禪院家でも、ここでは大人の私の父よりも、子どもの直哉の方が偉い。才能がものを言う家に、私は生まれてきてしまった。そして生を受けた瞬間から、狭い籠の中で女として一生捧げることを強いられている。
 だから禪院家の人間でいる限り、私にかけられた呪いを直哉以外の誰かに解いてもらえるとは、とても思えなかった。
#01