相変わらず指輪は抜けないし、壊れる予兆もない。私はというと、指輪を無理矢理引っこ抜こうとする癖がつき、気がついたら指先がうっ血しているなんてこともよくあった。
木枯らしが吹き始めた頃、そんな私を見かねた母が、アームウォーマーを編んでくれた。
「うちも見かけは立派なお屋敷だけれども、造りは隙間風が吹く古いものだからね。女の子は特に首がつくところは、暖かくしなきゃいけないのよ」
母はそう言うと、自分が手ずから編んだものを家の中で身につけることを、私にそれとなく促した。
私は自分の指を隠すように握った、着物の袖から力を抜いて袖を捲る。すると禍々しく光る子ども染みた偽物が、嫌でも眼中に入った。大した重さもないクセに、異様な存在感を放つそれが、私は嫌で嫌で仕方がない。
私の左手に、あの日のような違和感は続かなかったが、少なくとも年に数回しか会わない直哉のことを、思い出さない日はなくなった。それが彼が私にかけた呪いの真骨頂ならば、効果はてき面である。少年が気まぐれに起こしたイタズラの度は、とっくに超えていた。
そんな忌々しい指輪は、再び覆って見えなくしてしまいたかったが、その動きを制するかのように、母が私の手首を掴む。長い大人の指が、一時的に視界からそれを隠してくれたおかげで、知らないうちに強張った身体から、力が抜けるのを私は実感した。
「ほら、なまえの手首こんなに冷えてるわ」
「……お母さんの手、あったかいね」
「お母さん、なまえより先に自分の分作ってたの。だから温かいのよ」
この言葉のあと、私の手首から手を離した母は、自身の着物の袖を上げる。すると手の甲から前腕三分の一ほどに、くしゃっとゆとりを持たせた編み物を纏っていた。ちなみに私が贈ってもらったものと、全く同じ色の毛糸である。
恐る恐る視線を下げてみると、私にも指の第二関節近くまで包み隠す、手編みのアームウォーマーが、すでに母によって身に付けられていた。ちなみに、きちんと親指も出るつくりになっているので、動作のたびに指輪が見えてしまう位置まで引き上げる必要もなさそうだ。
「……いくらなんでも、おそろいは恥ずかしいよ」
「じゃあ洗い替えも必要だから、違う色も編んであげる」
じんと目頭がしびれるように熱くなった。視界もぼやけ始める。
私は編み物の端を強く握って、目の前の最愛の女性に礼を告げた。
「お母さんありがとう、大好き」
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母の少し早いクリスマスプレゼントのおかげで、日常生活は彩りを取り戻しかけたが、親戚の集まりがある正月が近くなるにつれて、再び私は伏せがちになっていた。
両親はそんな様子が続く娘を気遣い、本家には父だけ行けばよいと言ってくれたが、私にはどうしても京都へ行きたい理由があった。
その目的は、呪術高専の京都校だ。年末年始の禪院本家への滞在後、新年の挨拶がてら高専へ顔を出すのが、我が家の通年の習わしとなっている。そして私はその場所に、直哉や禪院家との、しがらみのない呪術師がいる事も知っている。
子どもの私に、術師の個人的な知り合いなどいないが、こんな家系に生まれてしまったので、呪力量くらいならば目視ではかれる。
運良くそんな人物に遭遇出来たならば、直哉より強い力で、この忌々しい指輪の呪いをねじ伏せてもらえるかもしれない。そのうえ少年を凌ぐ力の持ち主ならば、禪院家からの圧力にも屈しないはずだ。
私が被害者で、直哉が加害者であっても、彼は自身が行った些細な嫌がらせの内容を、きっといつまでもねちっこく覚えている。
お勝手で、女中さん達が噂していた。私が帰省しないだけでも直哉は機嫌を損ね、代わりに父がなにかしらの傷を負って帰ってくるだろうと。
一刻も早く指輪は外れてほしいが、私を大切に育ててくれた両親だけは傷つけられたくない。だから他力本願ではあるが、二人の目が届かず関与が疑われないところで、私は指輪を外さなければならないのだ。
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タクシーを降りて、両親とともに大きな門をくぐり、だだっ広い屋敷の客室の一室へ案内をうける。
「御用があれば、なんなりとお申し付け下さい」
使用人の女が襖をしめたところで、今日家を出てから鳴りっぱなしだった私の心臓が、ようやく息をついた。けれどまだ気は抜けない。直哉がわざわざ分家の者を、お出迎えに来るような少年でないと知りつつも、彼がニタニタと子どもらしくない笑みを浮かべながら、私の様子を見にやってくるところも簡単に想像出来てしまう。
けれど心配に反して、大晦日の晩も新年を迎えた日も、私と直哉が顔を合わすことはなかった。
そして毎年恒例である、禪院家での元旦からのたくさんの挨拶回りは疲れたけれど、正月料理はどれも美味しかったし、親戚の女の子たちと遊んだりして、私も久しぶりに気分が晴れた。だから警戒心も緩んでいたのだと思う。
母とふたり廊下を渡って、大浴場へ向かっていたときだった。
「あれ、なまえやん」
私より先に、その声の方へ振り向いたのは母であった。次いでとっさに私の前へ出て、背に隠すようにしながら頭を下げる。
「直哉様、遅ばせながら新春のお喜びを申し上げます」
「はいはい、おめでとさん。もう二日の夜やで、聞き飽きたわ」
「左様でございましたか。それは大変失礼致しました」
「ほんまやで。——それより、ちゃんとつけてくれとるんやな」
その台詞が耳に入ったときにはもう、私は目にも見えぬ早さで左手首を掴まれ、母の後ろから引っ張り出されていた。そしてタッタッタッと静かな廊下に私の足音が響き、彼の声色が変わったのも一瞬であった。
「おいなまえ、なんやコレ」
毛糸の防寒具の上から、ミシミシと骨が音を立てるような強さで手首を握られる。直哉が指すコレとは、母が編んでくれたアームウォーマーのことだ。あれ以来、風呂など水に触れるとき以外は常に身につけていた。もちろん理由は、指輪を視界に入れたくない一心で、だ。
「だって、寒いから……、痛っ!」
彼を前にして、私はとっさの嘘を口にするものの、直哉の逆鱗に触れた事実は変わらない。
「常に見えるようにしとかんかボケ!」
罵りとともに、浮遊感と先ほど以上の強い全身への痛みに襲われ、気がついたら私は廊下の奥まで突き飛ばされていた。直哉とは歳も近く、それほど背丈も変わらないが、私達の力の差は歴然だ。
慌てて母が駆け寄ってくるのが、妙にゆっくり見えた。
「このアホ一回本家で教育し直すわ。当主に話通したら荷物持ってすぐ来いよ」
子どもが怒りに任せて吐いただけの台詞でないことは、禪院家の人間ならば否が応でも知っている。吐き捨てるように言った直哉は、そのまま振り向くことなく角を曲がっていった。
彼の言葉に絶望したのは、私だけではない。先に涙を流す母の姿を見たら、なぜか私は自分のことなのに、泣けなくなってしまっていた。
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先の出来事を母から父に告げると、彼は娘の私も見たことがなかったような青い顔をした。それでも私達一家は、その晩川の字に布団を並べて眠り、予定にそって次の日の朝には本家を発つだけであった。
次期当主と噂される少年相手に、分家の私達は拒否権など初めからひとつもないのだ。
今にも雪が降りだしそうな曇った空と、日本海からの冷たい北風は、とても散歩日和といえるような気候ではない。けれど京都校に到着して間もなく、私は校内を散歩したいと言って、両親との別行動を申し出た。
突然の言動に、母は私を引き留めかけたが、すぐに口をつぐむ。一瞬目配せをしたので、父とこの合間に、私に聞かせたくない話をするつもりなのだろう。
彼女から、時間と待ち合わせ場所を念押しされて、私は二人と別れた。そして強い呪力を感じる場所へ足を急がせる。
私は人よりも呪力に敏感だ。昨晩まさに追い詰められた状況になってからは、ここが最後の希望であると、再三自分に言い聞かせてきた。
けれど、それを差し引いたとしても、これほど洗練された呪力を感知するのは初めての経験である。両親がなんの反応も示さないことが不思議なくらいで、禪院家には存在しない特級クラスの人物が、偶然にも居合わせているのかもしれない。
曇天のもと自身の口から、はあはあと吐く荒い息は白く濁るも、すぐに周りの空気に溶け込んでいく。振り袖では速く走れないが、もつれる足で必至に地面を蹴り、私は最後の好機に縋ることにした。
「あの、」
石畳をひとり歩いていたのは、意外にも黒紋付を羽織った、少年のような背丈をした人物であった。私の呼びかけと同時に白髪をなびかせ、こちらを振り向く。
「何?」
「……あなたに、お願いがあって」
私を射抜く鋭い眼光は、この場を凍りつかせてしまうような冷たい青色だった。遠くで感じとった呪力よりも、直接対面した彼の威圧感に、私は怯んでしまいそうになる。
それでも彼の顔つきは、大人の完成されたものではなく、私と同年代の幼さが残っていた。同時に呪術界隈では知らない人間がいないほどの、直哉よりももっと特別な人物の名を、私は思い浮かべる。——五条悟。
狭い世界なので、居てもおかしくはない。こんな場所でひとり歩いていたことには疑問が残るが、噂で聞いた容姿と実際に私の眼前に存在する雲の上のような数段違いの力が、その真実を物語っている。
掠れる喉から単語を絞るようにして、私は言葉を続けた。
「助けてもらいたくて……。私にかかった呪いを、あなたに解いてほしいんです」
「ダッサ、趣味悪ッ。どんな嫌がらせだよ」
ビー玉のような二つの目は、言うまでもなく、すでに私の左手を捉えていた。
これ自体は、禍々しい呪力を常に放つようなものではない。それに現在は呪いをかけた直哉の呪力が、私を巡る呪力の中に埋もれつつあるため、一見では気付かない人間も多い。だが、きっと本物である彼の見る力は、他と比べ物にならないので、わかって言っているのだろう。
面倒くさそうに左手で後頭部をガシガシと掻きながら、少年はもう一度冷酷を孕んだ瞳を私に向ける。私にはめられた指輪とは違い、それは曇り空の下でも本物の宝石のように輝いていた。
「左手ごと吹き飛ばしてもいいなら、やってもいいけどさ。そんな誰にでも出来るようなこと、わざわざ俺に頼むなよ」
「……本家の、……禪院に屈しない強い力を持つ人間は、ひと握りしかいません」
「よりにもよって、オマエ禪院家の人間かよ」
そう言うと、彼は呆れたように溜め息を吐き、一層顔を顰めた。
失言の文字が私の頭を過ぎる。私達に直接関係はなくとも、御三家として名を連ねる禪院家と五条家の仲は最悪だ。それだけで嫌悪の対象となる。
しかしここからどう転ぼうと、すでに後のない私は、彼に頼るより他ないのだ。
「あなたもよく知ってる……ますよね。私が自分で指を切り落としたとしても、怒りを買うのは家族も一緒です。だから私は今日偶然会えた、あなたにしか頼めないんです」
敵意はないものの、表情を消した五条悟は足音少なくこちらに近づいてきた。私も胸の前で拳を握り、身構える。重苦しい灰色の雲からは、とうとう彼の髪と同じ色の雪までちらつき始めた。
一人分の距離で立ち止まった少年は、沈黙のまま私を見下ろす。そしてなんの躊躇いもなく、グイっと顎を持ち上げた。
「っ、」
近距離で、特別な眼が見据えるのは私自身で、見定められているような居心地の悪さを感じる。けれど身体は、寒さで硬直しているかのように動かない。
「俺はオマエの家ごと貰ってもいいよ」
先程までの彼の強い懐疑心が、どこか熱が籠ったものに変化したとき、私はとっさに執着の強い直哉を連想した。
一歩引き下がろうとするも、すでに彼の反対の手が私の背に回っており、逃げ場を失う。
「でもさ、そうしたらオマエきっと、今度は俺に呪われたって言い出すよ」
灰色の世界で、唯一青い光を放つ少年は、私に言った。