「で、どうする?」
 年が明けて間もない日だった、あの日。寒空の下、五条悟は唇が触れ合いそうな距離で、私を見つめていた。そして当時はまだ幼かった私に、ひどく意地悪な言葉で救いの手を差し伸べた。



「なまえ、まだー?」
「はい、ただいま」
 畳の縁を踏まないように注意しながら、私は声の主のところまで小股で駆け寄る。和装の象徴である着物は何年経とうと動きにくくて、洋装に憧れる日々は未だ続いている。
 呼びつけた私の姿を捉えてもなお、片膝を立てて待つ横暴な彼から、少しだけ距離をとって私は着物の裾を直した。それからその場で正座をすると、待ち構えていたとでも言うように、私の太ももの上に男の頭がこてんと乗る。
「もうちょっとしたら出やなあかんくなってったわ」
 言葉のわりには、直哉の表情には愉快さが滲んでいた。多分彼の気に食わない人間が一人か二人、任務先で亡くなっているのだろう。それ故の呼び出しで、こんな時の尻拭いには直哉は喜んで向かう。
「左様でございますか」
 けれどなるべく感情を平坦にして、私はその言葉だけを口にした。死んでしまった人の事を、これ以上考えても仕方がない。
 私は膝の上の男を見下ろす。それから決まった動作で、無理矢理脱色をして傷んでしまった金色の髪を梳いてやった。直哉は気持ちよさそうに目を細め、わざとらしく溜め息まで吐く。そう、ここまでがいつものくだらない茶番劇である。彼はいつだって、恵まれた自分の気苦労を誇張する。
 結局あのときの私は、五条悟の手を取ることが出来なかった。当時の少年が言い放った台詞が核心をついていたから、きっと私はそうしたのだと思う。私がずっと、他者からの好意に怯えながら生きていることを、再度思い知らされた瞬間だった。
 五条悟は、私の家ごと貰うと言ってくれた。それでも彼の青い瞳の奥で、静かに燃える火を見たとき。直哉と同じ、もしくはそれ以上の熱情に、私はひどく怖気づいてしまった。五条悟に指輪を外してもらえたところで、この先彼は直哉とは違う形で私を支配するのだと予感した。だから私は彼を選ぶことが出来なかった。
「さっき言うてたカステラ、行く前に食ってこかな思て」
「では、お茶を淹れてきますね」
 私はそう告げて直哉を起き上がらせて、自分も立ちあがろうとした。けれども、頭を撫でていた手を彼が掴んだため断念する。
「行かんでええ。そんなん女中にさしとけ」
 そのまま力ずくに腕を引かれて、私は前のめりの体勢になった。ぶつかることはなかったが、視界がぼやけるほど、直哉の顔が近くに迫る。
 離れなきゃ。そう思ったときには、彼から唇を奪われていた。

 私が本家に来てから、すでに八年の月日が流れた。
 最初の一年間はほとんど軟禁に近い状態で、最愛の両親にも季節の行事で向こうが訪ねてくる時にしか会えなかった。
 次の一年は少しだけ自由を与えてもらえたが、相変わらず屋敷からは出してもらえなかった。だから私はもっと直哉に従順になった。そうすると季節が再び一周する頃には、彼と一緒のときだけ外出が許されるようになった。
 この辺りから私の花嫁修行も始まった。少年を『直哉』ではなく『直哉様』と呼ぶようになり、必然的に彼を敬う言葉遣いに正された。そして私がすすんで彼の側に居ることを心掛けると、連絡を欠かさないことを条件に、実家への帰省と短期間の滞在まで許可がおりた。
 結局そこまでが最大限で、それ以上の自由は得られなかったが、禪院の屋敷の中で分家の私が不自由なく暮らせたのも、全てが直哉のおかげだった。

 いつの間にか上下が逆転して、畳の上に押し倒された私は、直哉から貪るような口づけを与え続けられている。
 その最中に、一本一本絡めとられた指をぎゅっと握られると、左手の薬指だけが痛んだ。今もなお、そこにある指輪が原因だ。宝石を模したプラスチックのオモチャは、呪いの力を借りて、時の流れを知らないまま原型を保ち続けている。
 直哉は今年十八になる。つまり婚姻関係を結べる年齢を迎えてしまう。
 彼は恥ずかしげもなく、側室も何人か囲うと周囲に豪語しているが、このままいくと悲しい正妻の座を得るのは、彼と同じく禪院の血筋である私だ。相伝の術式を継いだ子を孕む可能性が高いため、反対の声も上がらない。
「残念、時間切れや」
「!」
 まるで思考を読まれていたのかと思うような台詞だったが、ただ単に命じられてカステラとお茶を運んできた使用人が、ここへ来ただけのことだった。
 直哉に抱き起こされて、茶菓子が前に置かれる。
 禍々しく光るこの指輪が本物になるまで、私に残された時間はわずかしかなかった。



 まだ明るい時間に、外で直哉と食事をした帰り道。花見でもしてこか、と彼は珍しく私を誘った。この時だけは素直に「嬉しい」という言葉が口から出たのを覚えている。
 けれど到着してからは、何か嫌な予感が私の胸をざわつかせていた。場所が場所だけに、等級の高い呪霊もしくは土地神でもいるような、そんな気配が漂っている。
 タクシーを降りて、拝観料を直哉が支払うまで私はずっと彼の三歩後ろを歩いていた。本当は怖くて、彼に縋りたい気持ちが強かったが、そう教えられてきたのだから仕方がない。
 草履の一歩一歩が消極的になっていき、どんどんと距離が離れていくが、何も話さない直哉は気づいていないのか、こちらを振り向きさえしなかった。
 不安を抱えたまま、小さくなっていく背中を追って、私は境内の門をくぐる。するとそこは、今まさに満開となったソメイヨシノで彩られていた。あまりの絶景に、私はふわっと自分の気持ちが軽くなるのを感じた。
 そんな折、彼は振り返って右手を差し出していた。私がぱちぱちと瞬きを繰り返すあいだ、そこにも花びらが舞う。
「早よせえ」
 直哉じゃなかったら、私だってもっと早くに察していたのだと思う。自分の左手をそこに伸ばして良いのだと私がわかったのは、待ちくたびれた彼が私に歩み寄ってからだった。

「まだそんなダサい指輪してたんだ」
 しかし、私がそこに左手を重ねることはなかった。
 背後からの声に振り向くと、私が感じ取っていた不穏な呪力の元凶となる人物がそこには居た。以前とは量も質も比べものにならないが、やはり思い浮かべる名は、ひとつしかない。
「や、久しぶり。元気にしてた?」
 五条悟は軽々しく、まるで親しい友人にするかのように、私の肩に手を置いた。
「……なんやなまえ、オマエ悟くんと知り合いやったん?」
「へえ、なまえちゃんっていうんだ。顔だけじゃなくて、名前も可愛いんだね」
 私の腕を引こうとした直哉を躱して、後ろの男は私を抱き寄せる。当時と同じく、身体が硬直したように動けなくなってしまっていて、私は意図せぬまま、五条悟に背を預けるような格好となった。
 空を切った直哉は珍しく真剣な顔で、私を見ていた。けれど私は自分が今、どんな表情をしているのかすらわからない。ご機嫌取りが定着しているのか、まだ怒りの少ないうちに直哉に助けを求めなきゃ、と頭では思っているのに片腕ひとつすら伸びない。
「前の時はさ、必死な顔して呪いを解いて下さいって迫られてさあ。まあ興味のない人間から寄せられる好意ほど、迷惑なものはないよね。ちなみにこの子、今も君のこと好きじゃないよ」
「あ゛?」
 突風とともに桜吹雪が、私達の間を駆け抜ける。思わずつむった目を開けると、ここ数年向けられたことのないほど恐ろしい鬼の形相で、直哉は私を睨みつけていた。ピリピリと肌にまで、彼の憤怒を感じる。
 私は泣きたくなった。けれど謝って許しを乞う気には、なれなかった。タイムリミットが迫っていた訳ではなく、最初から何もかもが手遅れなんだと、ようやくここにきてわかったからだ。
「この子は他人の好意全てに、怯えている訳じゃない。単純にオマエのことが好きじゃないから気味が悪くて畏怖の対象にして、指輪の呪いにも自分で拍車をかけてる。なあ、気付いてんだろ」
 それだけ言うと、五条悟はあの時のように、片腕で私の身体を支えたままこちらを振り向かせた。そして身につけていたサングラスを取っ払って、青い瞳が輝く顔を私に寄せる。
 私も大人の階段をのぼりつつあるが、あの頃よりも彼の背丈はずいぶんと成長しているので、きっと屈んでいるのだろう。いつも私に背伸びさせる直哉よりも、彼はずっと男の人だった。
「ちなみに僕なら、必ず君を好きにさせてみせるけど、今度こそ一緒に来てくれる?」
 前回のように強引に向かせるのではなく、私の頬を優しい手つきで撫でながら、彼は言った。
#03