「……どうして、今さら私なんかを」
 震える声で、しぼりだした言葉は自暴自棄になっている訳ではなく、純粋な疑問だった。
 当時少年だった五条悟は、禪院の名を持つ私に対して、明らかな嫌悪の態度を示した。あれ以来、五条家次期当主と噂される彼と禪院家の末端の私に、関係を覆すような接点はない。それに、ほとんど家から出してもらえない私が噂話を耳にするほどに、今でも両家の仲は険悪一色だ。
 しかしそんな私の言葉に対して、彼は全く家のことなんて気に留めていないようで。後ろで咲き誇る桜の花弁のように、ふわりと笑う。
「今日ここで、君に偶然再会できたからだよ。あの頃から八年経つかな?君のこと忘れられなくて、ずっと探してたんだ。さすがに禪院家の中までは無理だったけど、どこ探しても見つからないし肌も真っ白だし、もしかして今まで監禁でもされてたの?」
 彼の青い目に覗き込むように見つめられていると、まるで心の奥まで全てを見透かされている気分になる。けれどもうどうしたって、宝石の美しさに虜になったかのように、私自らが逸らすことは出来なかった。
「私は——、」
 目の縁を彼が拭ったことで、すでに潤んでいた目元から、涙が溢れたのだと気がついた。一度あふれ出すと止まらなくて、生ぬるいそれが五条悟の指を伝ってから、私の頬にも流れ落ちる。
 彼のことを拒まなければならないと、今まで直哉に教え込まれた偏った常識達が、頭の中で警鐘を鳴らしている。けれど直哉のことを好いていないと暴かれた時から、私の心の奥ではなにかが決壊し続けていた。
 怖いとか不安だとか、あるいは惨めだとか情けないだとか。色んな感情がごちゃ混ぜになって、私は自分が何を想って泣いているのか、もう訳がわからなくなっていた。
 嗚咽のせいで、いつも通り結んであるはずの帯が苦しい。五条悟はそんな私を見て、可愛いとまた笑う。ふつう醜いと嘲るはずなのに、不思議な男の人だ。
「なまえ、一緒に行こうか」
 天使のような微笑みと、蜜のような台詞に、私は頷いてしまいそうになる。


「あかんで」
 しかし、いつだって特別じゃない私に許された僅かな自由すら奪う人間は、昔からたったの一人だけだった。
 口を歪ませ、眉間に皺を寄せたまま、直哉は再び私への距離をつめる。これだけ怒りをあらわにしていても静かな足音が、禪院家に生まれた末恐ろしい彼の才能だ。
「あのさあ悟くんには悪いけど、こんなんでもウチでは、大事大事な箱入り娘やねん。これから術式持った子孕まなあかんし、ナンパのかわし方も知らん世間知らずやで、変な虫がつかんうちに連れて帰らしてもらうわ」
 伸びた直哉の手の行き先を見て、私はまた爪痕が残るくらい強い力で、手首を掴まれるのだと思った。それはいつも決まって、彼によってはめらた指輪をしている左だ。
 掴んだあとは引き摺られるように連れて行かれるか、昔一度あったように投げ飛ばされるか。あるいは強引に抱き寄せられたときもあったが、その後手ひどく抱かれた。
 私は五条悟の腕のなかで、とっさに身を引いた。けれど、すんでのところで直哉の指先が止まる。初めて見るが、関係性が良くないからこそ、その術式の話は私ですら幼い頃から頭に叩き込まれていた。
「あーはいはい。口説き落としてる最中だから、邪魔しないでくれるかな。無限じゃ音まではシャットアウト出来ないからさあ」
 肩を抱かれたと思ったときには、直哉に背を向けるようにして、もう一度彼の顔が近くにあった。
「今度は腕ごと吹き飛ばすとか、あんな意地悪言わず、ちゃんと指輪だけを壊してあげるよ。そのあとはこんな趣味が悪いのじゃなくて、今の君に相応しいものを買いに行こう。もちろん一緒に選ぼうね」
 散りゆく桜の比でないほどに、五条悟は綺麗な微笑みを浮かべていた。



 今度こそ首をコクっと縦に振ってしまった私は、一瞬のうちに空へ飛び上がっていた。当然自分の足の力ではない。五条悟の術式だ。
 恐る恐る遮るものがない足元を見下ろすと、ついさっきまで居た花見処の場所もわからないくらい高い位置に、私達はいた。さすがに瞬足を謳う直哉も、ここまでは追いかけて来れないだろう。
 高いところが怖かった訳ではなかったけれど、胸元にしがみついた私を五条悟は抱き上げてくれた。私が顔をあげると、今度の彼はとても楽しそうに口角を上げていた。
 パタパタと音を立てて靡く着物の袖を内に入れ終わると、五条悟は前を向いてそのまま空中を歩きはじめる。
「まずはご両親にご挨拶だね。実家は京都なの?」
「違います」
 場所を告げると、結局京都駅まで戻んなきゃいけないじゃん、と彼は口を尖らせる。子どもの頃の約束通り、私の家ごと貰ってくれるらしい。これでひとつ心配事が減った。
 地上に降りるまでに、彼はたくさんのことを私に語って聞かせた。そのなかには将来のこともあって、思わず私は顔を赤らめてしまう。
 そんな私を見て、五条悟は揶揄うように、また可愛いと言って笑った。容姿や仕草に対しての、否定的な言葉に慣れすぎていたせいか、毎回心がむず痒くなる。これほど美しい人間から、いとも簡単に出る台詞に、私は慣れる日が来るのだろうか。
 そして酷い思い出から連想するかのように、私は直哉の事を考えた。今思えば彼との日々は、悪い事ばかりではなかった。五条悟の腕のなかにいるのに、こんな風に直哉に抱き上げられた日のことを私は振り返る。
 最後に彼がどんな表情で、私のことを見ていたのか。私が生涯知ることはないのだろう。
 五条悟と生きていくことを選んだ私は、もう直哉とは一生会えないのだから。
#04