ざわざわと人の声で賑わう喫茶店内。平日の朝だけあって、年配の方が多い。高齢化社会というが、実に活気のある空間である。本当、五月蝿すぎるくらいだ。
 三十分前に入店し、十分前に席へと通され、注文したモーニングセットがやって来たのが三分ほど前。
 半切りトーストとサラダを半分ほど食べ終えたところで、私はベルベット生地の椅子に深く腰掛けた。左手に持ったマグカップには並々のアメリカンが注がれている。

「おっはー」
 軽薄な挨拶をかます、この声に聞き覚えはあった。だけど、私は敢えて顔を上げなかった。
 担当患者の急変からの徹夜明け。疲弊しきった身体には、しんどい人物である。私は無言のまま珈琲をすすり続ける。
「いやー良かった良かった。あれ、なまえの車だと思って外から店内覗いてみたら、本当に居るんだもん。今何人待ってるか知ってる?九時半で十三組だよ。そりゃ相席するでしょ」
 朝の喫茶店には相応しくない黒ずくめの男は、何が楽しいのかずいぶんと口角が上がっている。アイマスクではなくサングラスをしているだけ幾分かマシであるが、こんな怪しい男と親しげにしているところを、知っている人に絶対に見られたくない。病院関係者や患者にその家族など、守ってきたイメージが崩れること間違いなしである。
「相変わらずみたいだね」
 カップからくちびるを離し、私は吐き捨てるように言った。
 正面の同じ形の椅子に腰掛けた大男は、もう脚を組んでいる。長さを持て余しているところが、さらに腹立たしい。
「そりゃどーも」
 メニュー表も見ないまま、呼出ボタンを押した彼はまた笑っていた。



 私の職業は医師だが、窓というお金にならない呪術高専関係の副業もおこなっている。
 呪霊の発生を確認ししだい昼夜問わず高専関係者へ報告するのだが、それは医学部の同窓生である、家入硝子という女との出会いがきっかけだ。
 後に判明したことだが、彼女はストレートで医師免許を取った私よりも年下だった。なんで?

 家入が編入してきた五年次の春。自己紹介もほどほどに、彼女は初対面の私に「アレ、見えてるよね」と訊いた。それは当時、私が突然見えるようになった化け物の事だった。
 キャンパスには小さいのが少々。人に付き纏っているのもいるし、勝手気ままに飛んでいるのもいる。気にはなるが、それはまだいい。
 問題は併設された附属病院である。診察の見学や実習等で病院へ行くと、学内と同じく小さいのを連れている病院スタッフや患者を何人か見かけたが、数が異様に多いのだ。
 さらに院内を、オオウナギを十倍くらい大きくしたような化け物が常に泳ぎまわっていて、手術室前にはヘドロのようにこびりついた汚い色の、はっきりと形を成さないものがひとつ居座っていた。
 勉強漬けの毎日で、私はついに自分がおかしくなったのかと思った。これだけ気味の悪いモノに囲まれても、みんな至って普通に病院内をやり過ごしているのだ。だから、本来は居ないモノを私は見ているのかもしれない。そう思った。
 しかし彼女は言った。
「アレは間違いなく、現実に存在している。見えるようになった貴方はマイノリティだけど、なにも狂ってない真っ当な人間だ。心配しなくていい。それに私はそれらを祓う術と、可能な人間を知っている」
 家入がどこかへ電話を掛けた数時間後、黒塗りの車とともにやって来たのが五条悟だった。



「私、昨日朝から夕方まで一日外来したあと、夜に呼ばれての今なんだけど」
「奇遇だね。僕も移動と祓うの連続で、昨日の朝に起きたっきり一睡もしてないよ」
 食事を終えたタイミングで、全く同じモーニングセットがテーブルに届いた。もちろん私が頼んだものではない。目の前の男が、このテーブルに追加注文した品である。
「それに私、今日も十七時からノーメスの救急当番もあたってるんだよね」
「僕もどうせ夕方くらいには、呼び出しくらうだろうなあ。そりゃ人命が懸かってるから仕方ないんだけど、特級だからとりあえず呼んどくかみたいなの本当勘弁してほしいよ、全く」
 スティックシュガーを二本あけた五条悟は、わざとらしく溜め息を吐きながら、くるくるとマグカップ内をマドラーでかき回している。糖尿病予備軍じゃんと思いながら、私はその動作にじりじりと耐えつつ、この揚げ足取りを論破する方法を考える。
 数十秒してマドラーを置いたので気が済んだかと思えば、彼は味見というように甘くなった珈琲をひとくち口に含む。そして、さらにミルクピッチャーから乳白色の甘い液体を注いでいた。オッエー、信じられない。見ているだけで、胸焼けがしてくる。私の我慢も限界に近い。
「夕方からの事もあるし、徹夜明けで私死ぬほど疲れてるから、少しでも睡眠時間を確保したいの。わかる?」
「わかるよー。二十四時間のうち五時間くらい寝れた日でも、二時間二回と一時間一回じゃ疲れも取れないからね」
「そうなの。待機室で休んでても、すぐコールあるし。やっぱり自宅のベッドで休めるときに休んでおかないとね。……ってことで私、もう帰ってもいいよね」
 テーブルの下で、器用に私のふくらはぎを這う足先に問うた。
 スキニーパンツをはいているので、素肌に触れることはないのだが、衣服の上からだとしても、せめて靴くらい脱げよと思う。靴下でも素足でも、それはそれで気持ち悪いが。
「ダメに決まってんじゃん」
「はあ?」
 腹の底から出たドスの効いた声は、思いのほか大きくなってしまった。五条ではなく彼と背合わせにして座る、奥の席の女性の肩が跳ねた。
 振り向かれなかった事を有り難く思いつつ、驚かせてごめんなさいと心の中で謝罪しておく。
「さっき自分が言ったじゃん。ちょっとでも睡眠時間確保したいって。僕だって同じだよ。山奥まで帰るのに補助監督の迎え待つのもしんどいし、タクシーも結局揺られる時間は一緒だし、ここから二本も乗り換える電車なんて乗る気にもならないし。 で、転勤で引っ越したって聞いたけどなまえんち、どうせ近くでしょ?このまま一緒に仮眠とらせてよ」
「嫌に決まってるでしょ!」
 私はショルダーを持って立ちあがる。逃げるが勝ち、先手必勝だ。
「きゃん!」
 だが、遅かった。立ったその瞬間にはもう、五条は長い脚を二本ともつかって、私の膝から下すべてを挟み込み、自分の方へと寄せていた。
 もちろん私は体勢を保てなくて、椅子の上にだが、尻もちをつく。赤くて良い椅子だが、ちょっと固いので尾てい骨に地味に響いた。
「僕もさあ、死ぬほど疲れてるからか知らないけど、すっごいムラムラしてるんだよね。なまえも同じでしょ。前もそんな事言ってたもんね。 本当に眠りたいのなら、さっさと帰ればいい。喧騒の中で冷静さを取り戻そうと思ったのか、せめて食欲だけでも満たそうと思ったのか。それは知らないけど、わざわざこんな混んでる喫茶店に寄ったのは、真っ直ぐ帰っても寝れないのわかってたからだよね。——気持ちよくして、鎮めてあげよっか?」
 今度こそ、五条の背に隠れるようにしてこちらを覗き窺う御婦人の顔を、私は恥ずかしくて見れなかった。



「ねえ、もっと締めてよ」
「無理っ!」
 仰向けになる五条の上に跨っている私は、一般的に骨盤と呼ばれる位置にある、側部に出っ張っている腸骨という名の骨から、足の付け根にあたる大転子という骨まで大きな手で鷲掴みにされている。
 下から突き上げられて、腰を捩りたいのに固定されていて、前に倒れる事も後ろに凭れかかることも許されない。いきすぎた快感を逃せず、締めろと言われても、気持ち良すぎて上手く身体に力が入らない。
「もう、しょうがないなあ」
「——痛っ!」  
 やっと腰から指が離れたと思ったときには、長い腕が胸元まで伸びていて両方の乳首を同時にギュっと摘まれた。力加減もなにもあったものじゃなくて、抓られたと表現した方が適切だったかもしれない。本当に痛い。
 五条は憎らしくも、ははっ、締まった締まったと笑っている。
「ねえ、なまえ。もうイきそう?」
「まだ。今の痛みで、ちょっと正気に戻った」
 彼の引き締まった身体に手をついて、合わせるように腰を揺らす。本来なら上に乗っかる私が主導権をもつ体位なのだ。
「なんかヤバい。こんなに積極的に動かれると、今日は僕の方が先にイっちゃうかも」
「どの口が、それを言うのよ」
 上体を倒した私は、その減らず口を塞いでやった。



 元凶となっていたオオウナギとヘドロの呪霊を、家入が呼んだ五条が祓い終えたあと。彼を送ってきた補助監督を含めた四人で、夕食がてら私に今後の在り方と、呪霊についての詳しい話をしてくれるはずだった。
 しかし、補助監督が車を回している僅かな時間で、呪霊関連の急患とやらで家入が呼び出された。後部座席に乗り込んだ彼女が運転席の彼にそれを伝えると、そのまま車は発進し、慌ただしくこの場を去って行ってしまった。
 時間外の病院の正面玄関に、知り合って間もない私と五条悟が、ポツンと取り残される。夜風もお構いなしに間を通り抜ける。
 家入とはこれから学内でも顔を合わせるだろうから、呪霊についての話はいつでも良い。
 足を踏み入れたばかりの新しい世界は殺伐としていて、正直私も疲労の限界だった。その時の五条にも、似た印象を私は抱いていたので、さっさと離れてしまいたかったのだ。
 意を決し、お疲れさまでしたと彼に解散を切り出そうとしたそのとき、斜め上方から「冷えたし、鍋でも行こっか」という柔らかい声が降ってきた。とっさに結びつかなかったが、声の主は言わずもがな、隣にいる五条悟である。
「えっと、」
「この近くに穴場のお店があってさ、モツ鍋なんだけど食べられる?」
「はい、大丈夫です」
「歩いて行ける距離だから」
 そう言いながら、五条は私の肩に手を置いた。この時からもう下心があったと、のちに彼は言った。本当かどうかはわからない。春の夜の出来事である。

 その晩、私は五条と寝た。
 家入は私を真っ当な人間だと言ったが、連日の睡眠不足から確実に脳は疲弊し、まともな思考回路を確立出来なくなっていた。
 アルコールも入っていない素面状態で「ちゃんと寝てなさ過ぎて欲求不満になっている」なんて、会って数時間の男の前で口走ったのだ。
 いくら呪霊のストレスから、極限状態の寝不足が続いていたとはいえ、思い出すだけで顔から火が出そうになる。さらにそれを数年後に掘り起こされる事になるとは、思いもしなかった。
 もっと、気持ちいい、さわって、良くして——、口から出た言葉は全て本心だったが、初対面の男とそういう関係を持ったのは初めてだったと、弁明させてほしい。
 五条は私がそんな事を言うたびに、可愛い可愛いと笑った。愛の言葉は決して口にしなかったが、なまえ、なまえと何度も名前を呼んでくれて、充分に心も身体も満たされた。
 結局五条が一回出すまでに、私が何回イったのか覚えていない。同意の上で行為に踏み込んだ訳だが、上に乗っかったって主導権を握れない私の身体を、彼はそれはもう自分の物のように好き勝手に揺すった。それは年月を重ねた今でも同じだが。
 学生時代の狭いワンルーム。終わったあと、よくもまあ、あんな狭いシングルベッドで二人眠ったものだと思う。
 夢をひとつもみなかった、深い眠りだったことも覚えている。 



「もう昼の十二時過ぎてる。四時間も寝れないじゃん」
 時間節約のため、五条と一緒にシャワーを浴びて、ともに寝支度を整え枕を並べる。アラームは十五時四十五分にセットした。遅くても十六時半には家を出たい。
「でも四時間のなかで約九十分のノンレム睡眠を二回繰り返したとしたら、睡眠時間としては充分だと思うよ。そのあたりなまえの方が、よくお勉強してるんじゃないの」
「さっさと、目つむって」
 横から手を伸ばし、隣の口数が減らない男のまぶたを強制的に下ろしてやる。ふさふさの白いまつ毛が手のひらに当たってくすぐったかったが、性欲が満たされた今、睡眠のための一分一秒が惜しい。
「ねえ、布団の隙間が寒いからもっとこっちに寄ってよ」
 遮光カーテンを引いても、薄暗くしかならない部屋で、五条が私の寝巻きの裾を引っ張る。
「嫌」
 キッパリ断るが、そのまま抱き込まれた。結局どうしたって、彼は自分の思い通りに事を進めてしまうのだ。それだけの力を持って五条は持っている。

 目を閉じて、私は今日の出来事を記憶の引き出しにしまう。
 引っ越しと同時に思い切って買い替えた、クイーンサイズベッドは、五条と並んで寝ても些か余裕がある事がわかった。
 微睡のなか、我ながら良い買い物をしたな、と私は私自身を褒めた。
ダメ、コイツ