空も曇りがちで、じめじめと辛気臭い季節になろうと、婚約者が訪ねて来る以外のイベントを持たない私は、案外と心穏やかな日々を送っていた。
 そんな折、居間で母と談笑しながら夕食後のお菓子を頂いていたところ、聞き覚えの少ない電話の着信音が鳴り響いた。
 それぞれが首を振るも、音源は私が懐におさめていたもので。手慣れないものだから恐る恐るといった調子でボタンを押すと、少し籠った彼の声が耳へと届く。
「パスポートですか」
『この間、置いていったキャリーに入ってない?』
 挨拶もそこそこに用件を切り出すので、私はその場に母を残し、彼に買ってもらったばかりの携帯電話を持って廊下へ出た。
 自室へと続く薄暗い道のりのなか、一応私の手によって荷解きが済んだ中身から、事細かに探し物の潜伏先のいくつかの候補を挙げられる。
「先日は東北じゃなかったですか」
『その前から入れっぱなしだったんだと思う。いっぺん予告なしの海外やられてから備えて。多分ずっと』
 突然の海外出張ですらも、今は予定の範囲内の出来事なのだ。国内外を飛び回る特級術師が、いつから旅券を持ち歩いていたのかは分からないが、この一年程は高専の部屋にいる方が珍しいと言っていた。
 任務先から次の任務先へ。もちろん丸一日の休みはない。戻る暇もないのだから、突然の海外出張にも対応できるよう、唯一のものは携帯するに限るとなったのだろう。

『そういえば土産のラーメン食べた?』
「はい、今日のお昼に出してもらいました。ちぢれ麺なのにつるつるしてて、あっという間に一人前食べてしまいました。すごく美味しかったです。ご馳走様でした」
『それはよかった。なまえ食べたことないって言ってたけど、ご当地グルメとしての名前くらいは知ってた?』
「本当に名前だけ。私、行ったことのある土地の方が少なくて」
 遠出といえば前回の高専への東京行きを除き、もう十年以上禪院家本家のある京都と地元の往復くらいしか記憶にない。
 そして今も五条悟の命で、本家に居たときと同様、敷地外への私一人での外出は許されていない。けれど直哉しか構ってもらえる人間がいない本家とは違い、気の知れた人間ばかりがいる生家での不自由は、なんの苦痛もなかった。
 あれ以来高専にも行っていない。いや、積極的に行こうとしていないと言った方が正しいだろうか。
 だからなのか、私の顔を見にきたという名目のもと、五条悟名義となったうちの屋敷に、出張帰り(途中?)の彼が立ち寄って、一晩だけ過ごしていくという事が以前よりも多くなった。
『じゃあ今度は本場のものを一緒に食べに行こうね。寒い日のラーメンもいいけど、雪が降る前がいいかな』
「はい、楽しみにしています」

 二日前に帰って来た時の彼は、いつもの服装と違い街に溶け込むような格好で、キャリーケースとボストンバッグを携えていた。
 私の口から「おかえりなさい」という言葉がスッと出るようになったのは、「わざわざ足を運んでくださって」と習わし通り謙って出迎えた時よりも、彼がはにかんだ笑顔を見せてくれたからだった。
 身体を重ねたあと、抱き合ったまま一組の布団に入った次の朝には、彼は間違いなく次の任務先へと発っていく。ここへ来るのは、本当の意味での寄り道なのだと思う。
 だからこそ遠慮の言葉を口にしかけたら、ふにゃふにゃになるまで、ねちっこく唇を塞がれた。そして「したいからそうしている」と言って、彼は私のまぶたにキスを落とす。その時の私は、多分泣きそうになっていた。
 今回は、主に使用済みの衣類と沢山の土産ものが入ったキャリーを残し、彼は鞄一つだけを持って翌朝、日の昇る方角へ旅立っていった。

『それより、あった?』
「もう少しだけ待ってください。今部屋に着きました」
 部屋の明かりをつけた私は、壁際に立ててあったそれを倒し、急いでジッパーを引く。自分も畳の上に膝を下ろして、私の手によって大きく開かれたキャリーケースを見下ろした。
 実のところ、私は今も昔も海外に出たことがないので、パスポートというものを知識でしか知らない。携帯電話を肩に挟み、私は両手を使って彼のいう順番通りに探し物をする。
 その際左手薬指が何かに引っ掛かった。よくあることで、仕様もない指輪の装飾がきっと原因だ。しかしそのまま手を動かすと、糸のようなものがプチンと切れた音がした。それならそれで良い。
 相変わらず私の指には、陳腐な指輪がはめられたままになっている。前までは夏でもグローブを身につけたりと、視界に入れないことでその存在を忘れようと、私は尽力していた。けれど最近は、ゆるい坂道のような心境の変化が続き、前ほど気に留めなくなっていた。
 私の婚約者となった五条悟の力で、指輪を外してもらいたいと思う気持ちに変わりはない。だが月単位で穏やかな日々が続くなか、自尊心の高い直哉が私なんかに執着を続けているとも思えず、近頃は指輪を見ても連想的に彼のことを思い出さない日すらあった。
「メッシュのポケットのなかは、ビニール袋とボールペンだけです。あとは雑誌と……黒いポーチの中もイヤホンとかコンセントの先?とか」
『そのポーチの外ポケットは?』
「あっ!赤い手帳、ありました!」
 大きさの割にしっかりとした重さのあるそれは、間違いなく金色の文字でパスポートと記されている。
 癖がついているのか、開きやすくなった一枚捲ったあとのページには、宝石のような青い目が惜しげもなく晒された、今より少し幼い彼の素顔の証明写真があった。初めて会った時と今の姿の中間の年齢くらいと言ったところだろうか。なぜだか微笑ましくなる。
『悪いんだけどさ、誰か使用人に空港までそれ届けてくれるように頼んでくんない?急にもほどがあるっつーか明日の朝の便でさ。高専から往復してると間に合わないんだよね』
「わかりました。——あの、私も行ってもいいですか」
『は?……車の長距離移動だし、夜通しになるだろうし、なまえはいいよ。また土産持って会いにいくから』
「少しの時間でも、直接悟さんのお顔を見て、話がしたいんです」
 彼が貴重な時間を割いて、ここへ寄ってくれる努力が嬉しかったから、私も少しでも同じようにしてあげたかった。
#06