家を出発してから大した時間が経過していないのに、対向する車のライトに照らされた景色を目に焼きつけるたび、改めて自分が外の世界を知らない人間なのだと思い知らされる。
 高速道路に入ってからは、信号機も蛇行するような道もないため、私を乗せた車はブレーキを踏むことなく、一定の速度で走り続けていた。等間隔で設置された常夜灯のせいか、私は彼に会えないまま延々と夜が続くような不安に襲われる。ずいぶんと身勝手な妄想だ。
「到着まで、まだまだお時間ありますよ。少しお休みされてはいかがですか、なまえ様」
 掛けられた声にハッとして、バックミラー越しに目が合ったのは、助手席に座る侍女と術師を兼ねる女性だった。長年家に仕えてくれているので、私も家族も彼女への信頼はとても大きい。もちろん運転席の男性も同様である。
 さらにもう一人後部座席へ乗せようとしたのだから、思春期を実家で過ごせなかった私を今さら過保護に扱う両親の方が、よっぽど外出時の危険を恐れていた。
「夜に出掛けるのなんて初めてで、なんだかソワソワして眠れないんです」
 不安を悟られないよう、なるべく明るい声を装って私は答える。わがままを言って無理矢理ついてきたのは私の方だ。例え気を許した使用人に対してだとしても、感情そのままを口に出すのは違うと思った。
「私もこんな遅い時間にお嬢様を連れ出して、なにか悪い事をしてしまっている気分です。五条様にお会いする時に、目の下のクマがなんてことはやめて下さいよ」
「はあい。お言葉に甘えて眠れそうだったら、眠らせてもらいます」
「きちんと旅券をお届けして、明日は万全の状態でお見送りしてあげてくださいね」
 ポッと自身の顔が赤くなったのがわかった。私が布団の中で毎回彼を送り出すことを、みんな知っているのだ。
 街灯が車内に差し込み、軽く握られたこぶしの上で安っぽい指輪がその光を反射する。



「この指だけえらい細くなってしもたな」
 私を自身の膝の間に座らせた直哉は、わざわざ後ろから抱きしめるようにして、左手薬指に触れた。オモチャであるそれをスリスリと撫でながら、五号くらいか?と呟いている。
 下を向いたままでいる私は、なんと答えたら直哉の機嫌を保てるのか分からなくて「そうかもね」とか「指輪の大きさなんて知らない」だとか、まるで幼い頃に戻ったかのように、しどろもどろな言葉を返した。
 けれど直哉はそんな私を咎めるでもなく、宝物を仕舞い込むかのように、私の身体ごと自身の方へギュッと抱き寄せる。力が強過ぎて痛いくらいの時もあるのだが、今日の彼はとてもちょうど良かった。
 背中を起点に、あたたかな体温が広がる。それと同時に柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。直哉がよく使用していた、懐かしい整髪料の匂いだ。
 けれどそれを感じ取った途端、なぜだか直哉の腕の中にいる私の胸がキュッと苦しくなった。そして意味を理解出来ないままに、私は首を横に振りながら違う違うと泣きじゃくる。
 そうだ、これは先日の私と五条悟との記憶のはずだ。直哉とはこんな事をしていない。私は夢を見ていた。
 夢だとわかってからも、腕のなかから必死に抜け出そうとする私を、直哉は何も言わないまま抱きしめ続けた。あの日、彼が私を花見に誘わなければ、きっとこれが現実だったはずだ。

 薄い瞬きを繰り返しながら、私は着物の懐に仕舞った携帯電話を手に取った。デジタル時計が示す時刻は、まだ午前四時を過ぎたばかりである。それでも夜明けが近いのか、東の空が白くなり始めていた。
 もうこの頃には夢のことなどすっかり忘れていて、眠ったような起きていたような、気怠さが残る形で私は前の席の二人に問う。
「……今どのあたりですか」
「神奈川県を半分ほど過ぎたところかと思います。次のSAで少し休憩を挟むつもりですが、なまえ様もお手洗い等いかがでしょうか」
「そうですね、起きていたら行っておきます」
 多分このまま眠りに落ちてしまうと分かっていながらも、私はもう一度目を閉じた。



 私が再び目を覚ました時には、もう朝陽は高い位置にあって。彼と待ち合わせの六時まではあと二十分ほど、国際線のあるターミナルまではあと十分ほどで到着するとの事だった。
 私は手提げ袋のなかの彼のパスポートを再度確認する。元も子もない話だが、今になってきちんとあることを確かめて、最後に少しだけ幼い彼の顔を目に焼き付けた。
 そして買い与えられたばかりの、五条悟の着信履歴しか残らない携帯電話を開くが、到着の連絡が入っている様子もない。毎回そうだが、彼は約束の時間よりも僅かに遅れてくるだろうと思う。もう少し時間に余裕があると踏んで、私は年頃の女らしく起き抜けの顔を手鏡で整えることにした。

 こんな朝早くでも人が混み合う、空港のターミナルという場所に私は驚きが隠せなかった。プライベートでもビジネスでも、当たり前なのだが洋装の人ばかりで、着物の私はかなり悪目立ちしてしまうということに、今さらながら気がついた。
「なまえ」
 ロータリーから車が一台退いて、真正面で降ろしてもらうと同時に背後から声が掛かる。最近の私は彼と居ることに慣れすぎていて、以前ほど過敏に呪力や気配を感じ取れなくなっていた。
 けれどサングラスの奥の青い瞳は、こんな場所でも真っ先に私を見つけてくれたのだ。早朝の冷たい空気を切り裂くように、彼は片手をあげながら私のすぐそばまで来てくれる。
「悟さん、おはようございます。すみません、お待たせしてしまいましたか」
「僕も本当に今着いたとこだよ」
 そう告げた彼の後ろで、高専の補助監督と思われる黒いスーツの人間が車から荷物をおろしていた。それを見て、私も今回の目的を果たすべく、カバンの中から彼の大事な旅券を取り出す。
「あの、これ」
 片手で事足りる小さなものだけれども、私はあえてその赤い手帳を、両手を添えて差し出した。自ら言い出した事だったから、ちゃんと責任を持って届けたかった。
 彼は一瞬戸惑ったのち、パスポートだけ抜き取るのではなく、大きな手で私の手ごと包み込んでくれた。起き抜けの私の方が体温は高かったけれど、きちんの人の温もりを感じる。
「ありがと。わざわざ届けてくれて。なまえが空港まで行ってもいいかって言ってくれて嬉しかった」
 とても穏やかな口調だった。ここが公共の場でなかったら、彼は私の顔のどこかにキスを落としてくれていたのだと思う。五条悟がそういう触れ合いに積極的な人間だと、私はもう知っている。
 その焦れた気持ちが表情に出ていたのか。出張前にそんな物欲しそうな顔をするなと咎められた。 
「それより、直接話したいことって何だったの」
「? いえ、特になにかという訳ではなくて。いつも悟さんが貴重な時間をさいて実家に来てくださるので、私からも、少しでもお顔を見れたらと思っただけです」
「はあー……、オマエこのまま自分も連れてけってか」
「えっと、」
「ったく、なまえおいで——」
 包まれていた両手から片方だけを残して、彼は私の手を引いた。そして有無も言わさず建物の壁際に私を追いやると、その大きな体躯で人の目を避けて、上から覆い被さるように口付けをされた。前触れもなく、深く深く五条悟は私を犯す。
「っ、」
「ん、ふ」
 私は形だけの抵抗をしめすものの、指ごと絡み取られて、ついには腰が抜けそうになるところを抱き上げられる。
「続きは帰ったらね」
 真っ赤な顔をして涙ぐむ私とは対照的に、悟さんは余裕綽々と、いつもの表情に戻っていく。
 実家に置いて行ったものよりも、さらに大きなキャリーバッグを引いてこちらに向かってくる補助監督を横目に見つつ、別れ際私の頭をひと撫でした彼は「そうそう」と付け足した。



 往路と違い、彼のせいで帰りは一睡も出来なかったが、付き添ってくれた二人のおかげで、私は無事屋敷へ帰宅することが出来た。
 土産話もそこそこに自室へ戻ったあと、私は自身の左手薬指に、右手の親指と中指を添える。そして否が応でも慣れ親しんだ、プラスチックの指輪の輪郭を捉えた。
 以前は無意識的な悪癖のように及んでいたこの行為も、本家に呼ばれて直哉の目を気にするようになってからは意識的に控えるようになった。
 痛みを伴いながら、幾度もうっ血を繰り返した指先が、不安気に私を見つめている。私の第二関節は、間違いなく身体の成長とともに、指輪の内周よりも太くなっていた。ここから無傷でこれを抜き取ることは、理論上不可能に近い。
 それでも私は、五条悟を信じて生きていこうと決めた。桜舞う日の彼の宣言通り、私は彼を好きになってしまったのだ。
 いつだって躊躇いなく私に触れてくれて、会えたときには真っ直ぐな気持ちを伝えてくれる五条悟を、この短期間で私は深く愛してしまった。見送ったばかりだというのに、今ももう彼に会いたくて仕方がない。
 直哉については決して憎かった訳ではなく、あんな別れ方をしたことには、後悔が残っている。けれど、ようやく決断した直哉との決別の意味を込めて、私は指先に力をいれた。
「!」
 そのとき、何をしても動じなかったはずの指輪に、パキッと音を立ててヒビが入る。抜きとろうとしただけなので、プラスチックを割るほどの力は加わっていないはずだ。
 けれど亀裂を機に、直哉が私にはめた指輪は間違いなく呪いであった事を今更知らしめて、砂のように崩れ去る。ただ見ているだけの時間で、私を縛っていたものは跡形もなく、サラサラと空気中へ消えた。
『今のなまえなら自分で外せるからやってみな』
 いったい悟さんはどんな魔法を私にかけてくれたのだろうか。帰ってきたら、彼に聞こうと思った。
 同時に彼には今日の続きを期待しているし、あの日の約束通り新しい指輪も買ってもらわなければならない。
 それよりも一生ものの指輪を一緒に選びに行く際、街で下手に目立たず彼の隣を歩いていても恥ずかしくないような洋服から、先にねだってみようと思う。私は街ゆく人がジュエリーショップを訪ねるときの正装すら、知らないのだ。
 今から彼の帰宅が待ち遠しかった。
#07