僕でも知っていたように、彼女はなまえにとって特別親しい人間だった。もう十年来の付き合いで、呪霊に襲われ両親を失うという似た境遇でこの世界に足を踏み入れた二人が、少人数の教室で親しくなるのにそう時間は掛からなかったという。僕と傑がそうであったように、親友という間柄で彼女達は信頼を築きあい、とても強い友情で結ばれていた。
ちょうど僕が出るときに、病院から遺体を乗せた車が高専に到着した。多分だがなまえと同様、彼女には身寄りがない。もちろん辿れば遠縁の親戚はいるはずだが、ある程度のことはここで済ませてしまうのだろう。この業界ではよくある話だ。
僕の目線の奥で、同僚の男に肩を支えられながらやってきたなまえだったが、人ひとりが入った黒い遺体袋が見えた時には、ついにその場に泣き崩れてしまった。
僕も見たことのないような取り乱し方をしており、さすがに手を貸そうと足を向けかけたのだが、またしても彼女は補助監督の男に抱き起こされる。そしてそのまま全ての重心を預けた格好で、なまえは嗚咽を漏らしながら男に寄りかかっていた。
僕の弱みになるからといって、彼女との交際は秘密裏に営まれている。けれども傷心とはいえ、恋人と違う男に支えられるなまえの姿は、いくら関係を公に出来ないからと言って長い時間見ていられるものではなかった。
今日の任務担当の補助監督を引き連れて、僕はその場をあとにした。
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元々虫の居どころが悪かったところに、事故渋滞へ巻き込まれ最初の予定が遅れる。そのせいとは言わないものの、到着時には手遅れになっていた案件が一件あり、さらに苛つきとやるせ無さが増す。
極めつけは今いる場所から近いという理由で、追加の呪霊討伐を言い渡される。先ほどのことがあったので断るに断れない。それもいざ行ってみれば雑魚中の雑魚で、僕を動員するほどかと毒を吐き、最悪の気分のまま夜になった。
時刻はもう二十一時を過ぎている。昼前から出ているので、移動も込みでもう十一時間ほど働いている。会社勤めを経験した七海は例外として、僕ら術師には労働基準法という概念はないはずだが、今夜はやけに時間が気になった。
けれど高専に帰る前に、半日一緒だった女性の補助監督と、このまま外で食事をとることになった。僕らは昼過ぎにコンビニのパンをつまんだっきり、食事らしい食事をしていない。
振り回される僕も気の毒だが、仕事とはいえ苛立ちっぱなしの男に付き合わされる彼女も気の毒だと思ったので、自分から提案した。
「とっても美味しいです、今日一日の頑張りが報われた気がします!」
「それは良かった」
道中だったという以外の深い意味を持たないまま、僕達は結構雰囲気のあるイタリアンバルへ入った。僕は下戸だし彼女も運転があるのでアルコール類は頼めないが、今さら慌ただしいラーメン屋やファミレスに入るような気分でもなかったため、この店を選んだ。席料を含め、一品一品それなりの金額を取られるので、酒を頼まずとも嫌な顔はされないだろう。
「彼女さんとかとよく来るお店なんですか?」
良く言えば豪快な食べっぷりだが、悪く言えば品がない。目の前のピザをめいいっぱい頬張ったあと、補助監督の女の子が僕に聞いた。
「まさか」
僕は平然を装い、質問に答える。下手に一緒にいるところを目撃される訳にはいかないので、なまえとはもっぱらおうちデートだ。彼女が僕の部屋で手料理を振る舞い、一緒に風呂に入ったあと、そのままセックスをして眠るというのが一連の流れになっている。
同時に昼間のことを思い出し、別の男になんの抵抗もなく触れさせるなまえについて、再び心が重くなるのを感じた。僕は潔癖な性格ではないものの、クリーニングしたての白いシャツを、それこそ目の前のトマトソースで汚されたような、とにかく嫌な気持ちになった。
「えー、そうなんですか。イケメンの五条さんにこんな素敵なお店に誘われて、オチない女の人はいないでしょうに」
彼女はわざとらしく上目遣いで僕を見て、口角をあげる。
どうやら僕は、女の質問の意味を履き違えていたようだ。彼女の先ほどの台詞は、僕への恋人の有無を問うものだったらしい。
「へえ、今の素面の君でもオチるの?」
ほとんどなまえへの当てつけで吐いたような言葉だった。
「当たり前じゃないですか。誰もが羨む五条悟ですよ。自覚ありますか?」
けれどその晩、僕は安っぽいラブホで、これまた安っぽい挑発にのった目の前の女を、気晴らしに抱いてしまった。
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「ねえ伊地知、なまえ大丈夫そう?同期の子が亡くなって、かなり落ち込んでたみたいだからさ」
世間話の延長のつもりで、僕は東京駅まで迎えにきた伊地知に彼女の近況を尋ねた。
身体だけとはいえ浮気をしでかして、ようやく罪悪感が芽生えた僕は、翌朝なまえに電話をかけた。あれだけ悲しみに暮れた恋人の姿を見ておいて、僕はとんでもない失態を冒し続けているということにやっと気がついたのだ。
まず、つまらない嫉妬心や体裁など差し置き、あのとき彼女を支えるべきは自分だった。そしていくらお詫びだったとしても、他の女と食事などせず僕は真っ直ぐ彼女の居るところへ帰るべきだった。どれだけ遅い時間であっても、親友を失った夜になまえを一人で眠らせてはいけなかったのだ。
「苗字さん、最初の二、三日は気丈に振る舞って仕事をこなしていましたが、やはりかなり気落ちしたのか今は休んでまして、退職も考えていると……」
「それいつの話」
「昨日の夕方、私のところへ連絡が」
僕との寿退社ならいざ知らず、そんなの全く聞いていない、という言葉を僕は後部座席で飲み込む。と同時にある時から電話も繋がらず、既読のまま返信のないSNSにようやく合点がいった。最悪を想定した妄想が、頭を駆け抜ける。
これまで自分も何人もの死を見てきて、実際に親友も失って、こういうものは時間が解決してくれるのを待つしかないと、僕自身思い知らされている。だから出張を言い渡されて、直接なまえに会って慰めることも出来ないのに、しつこく連絡するのもと思い止まってしまった。
どうも今回は、対応が全て後手後手に回ってしまっている気がする。手のひらにも汗が滲み、嫌な予感が止まらない。
「あのさあ、伊地知。高専戻んないで寄ってもらいたいとこがあんだけど」
いつの間に雨が降り出したのか、左右に動くワイパーが車のフロントガラスのしずくを拭っていた。
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「なまえ入るよ」
僕は合鍵を使って、玄関を開けた。何度かこのマンションには足を運んでいるが、彼女とは僕の部屋で会うことがほとんどなので、こうして僕自身が入口を開けるのははじめてだった。
チャイムには反応してくれなかったが、扉越しであっても一ヶ所できちんと循環する彼女の呪力が、僕の目には見えている。最悪なことになっていないようで、とりあえずはホッとした。
日が落ちているため、室内は真っ暗である。しかしそんなことは僕には関係ない。おそらくベッドの上で丸まっているなまえのところへ、僕は真っ直ぐ歩みをすすめる。
寝室へ足を踏み入れた僕は、膨らんだ布団を避けてベッドのふちへ腰掛けた。
彼女は眠っていた。だが指先が触れた横顔は湿り気を帯びていて、少し前まで涙を流していたことが伝わる。
「……誰?」
「僕だよ、なまえ。つらかったね」
そのまま僕もベッドへ乗り上げて、布団の上から彼女を抱きしめた。こうして触れ合うのは二週間ぶりだろうか。
目尻から頬へかけて、順番にキスを落としていく。どこもかもが少しだけしょっぱくて、可哀想になまえは本当にずっと泣いていたのだろう。これほど彼女に想ってもらえていた友人を、僕は少しだけ羨ましく思った。
次第に覆いかぶさるようにして、彼女も仰向けにして、口づけを続ける。だんだんと下へ降りて、最後にくちびるを合わせようとしたところ、なぜかここへ来てそっぽ向かれた。
「こんなときに嫌だった?ごめん」
それでも僕は同じ体勢のまま、なまえを抱きしめ続ける。今度こそ彼女が泣くときは、僕の腕の中にだけしてほしかったからだ。
「……悟さんには、私みたいに隠れてコソコソと会わなくてもいい、ちゃんとした相手がいるのに、もうこんなことしないで」
「は?」
言葉の意味はわかるが、彼女の指し示すことがわからない。
ぽかんとしている僕を差し置いて、なまえは物理的な距離を取るように、布団のなかで身体を捩り背を向けた。そしてもう僕がキス出来ないように、顔を手で覆ってしまう。
「……私と同じ補助監督の女の子、ふっ……食事に誘われて、ぐすっ、そのままホテルへ……んっ、行ったって……」
そのままなまえはうつ伏せになって、本格的に泣き始めた。
最悪だ。あの馬鹿女、と罵るよりも先に自分の愚かさを呪いたくなった。
一時の気の迷いだとか、身体だけで気持ちはないとか、一回だけでもうしないだとか、本当に愛しているのは君だけだとか、人並みな言い訳ばかりが頭の中を巡る。これから先、世の中の馬鹿な浮気男に自分も含まれるのだと思うと、心底情けなくなった。
「僕にはなまえだけだよ」
「違う、そうじゃない」
物音のない静かな部屋では、なまえのすすり泣く声だけが響いている。今この瞬間、闇が広がる部屋で彼女を泣かせているのは、亡くなった親友ではなく僕だった。
「……僕をひとりにしないで」
「……あの子が死んで、悟さんにも裏切られて、私をひとりにしたのはあなたでしょ」
なまえは僕を拒絶した。外ではしとしとと雨が降り続いている。