多忙な彼が「部屋で映画を観よう」と、私を誘うのは珍しいことではなかった。
 土産袋を引っ提げた学生服のまま、あるいはシャワーを浴びたあとのラフな格好で、同じ学生とは思えないほど時間を持て余す私を見つけては、悟くんは隙間のような休日を私と過ごすことに使ってくれた。
 映画を観ると言っても、私達は学生同士でありながら恋人同士でもあるので、それ以外のこともしていた。
 暗くした部屋でどちらともなく手を絡め合って、ストーリーになぞらえたようにキスをした。それが始まりだった。
 ただ触れるだけの啄むような口づけも、息が出来なくなるような激しい口づけも、全部彼が私に教えてくれた。
 もちろんその先にも進んだ。物語のエンドロールのあと、そのまま一緒に眠るだけだった夜が嘘のように、映画そっちのけでセックスに耽る日もあった。
 悟くんが初めての恋人だった私は、気がついたら自身の何もかもを、彼に塗り替えられてしまった気がする。まるで表裏一体のオセロの石ように、それまで純潔を保っていた無垢な白色が、快楽を知ってしまった淫靡な黒色に、彼の手によってひっくり返されてしまった。もう盤上は黒一色で、退路は絶たれている。身体を重ねることの良さを知らない頃の私には、二度と戻れないと思った。

「明日は五時半に起きるから、なまえは寝てていいよ」
「お見送りしたいから一緒に起きる」
 なんでも出来てしまう彼とは違い、出来ることしかやらない私が、彼にしてあげられることなど限られている。少しでも悟くんの為だと思ってもらえることをしたくて、私はそう口にした。
 すると真っ暗な部屋の中だったけれど、悟くんが小さく微笑んだのがわかった。そのときに私はちゃんと言えて良かったと思った。
 元々向かい合って寝転んでいたところを、ギュウギュウと強く抱きしめられる。つむじに口づけを落とされたのも分かった。
「もう一回する?」
「日付も変わってるし朝も早いんだから今日は寝ようよ」
「んー」
 曖昧な返事だったけれど、諦めてくれたのか私の背中に回った腕の力が緩む。しかし離してくれる様子はないので、今夜はこのまま眠ることになりそうだ。私も隙間から悟くんの広い背中に手を回す。
「大好きだよ」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、私はそう呟いた。今度は彼の為ではなく、悟くんを想う自分の気持ちを言葉にしておきたくして、私自身のために言った。
「俺も」
 しかし言葉は彼に届いていたようで、再び私を抱きしめる腕の力が強くなる。けれどもそれは一瞬で、上を向かされて悟くんは私の目尻にキスをしてくれた。理由もなく泣きそうになっていたので、涙が出ていなくて良かったと思った。
 悟くんが多忙なことは、周知の事実である。だから私は部屋過ごす以上のことを彼に求めるようなことはしなかったし、彼も私に何かを強要することはなかった。触れ合えない日々が続いても、彼との小さな想い出を糧に私は日常を送った。


 けれど親友と決別してから、悟くんはもっと忙しくなった。以前のように一緒に映画をゆっくり観る時間なんてとてもなく、私達は以前の半分以下の頻度でしか顔を合わさなくなった。
 それでも捻出した僅かな時間で、彼が私に逢おうと努力してくれていた事は知っていたし、私を誰よりも大切に扱ってくれているのも十分わかっていたはずだった。
 しかし恋人としての不満は募るいっぽうで、私は勝手に少しずつ気持ちがすれ違うのを感じていた。元々お互いがマメに連絡を取り合うタイプでなかったから、久しぶりに逢えたときこそ彼の近況がわからず、余計に距離感を掴めなくなっていた。
 時間が合うと、変わらずセックスもした。というか大抵それを目的に私達は逢っていた。二人ともがシャワーを浴び終わると、どちらともなく流れで始まる。
 そのときは気持ち良くなれるのだけど、終わった後との落差が酷かった。悟くんも悟くんで、出したら後処理をして自分だけさっさと寝てしまうのだから、いつも私は取り残された気分になる。彼は疲れているのだから仕方がないと頭では理解しているのに、気持ちが追いつかない。面と向かって言えないことに、私はまたストレスを抱える。

 ちょうど同じ頃、術式の相性が良いという理由で、私は京都校の後輩術師と組んで任務に出る機会が増えていた。
 彼とは現地合流が基本であり、事前打ち合わせや必要事項の伝達のため、必然的に連絡を取る機会が多くなる。年下の男の子だけどマメな性格なのか、仕事のことに絡めて天候や私の体調を気遣う内容で、彼は頻繁にメールをくれた。
『僕も今新幹線に乗りました。以前教えてもらったエビカツサンド食ってます。まじで美味いです!』
 いちいち報告をもらいたい訳ではないが、どこで何をしているか全く把握出来ていない悟くんとは大違いである。それに薦めたものを褒めてもらうのは、近しい感覚を持っているようで素直に嬉しかった。
 そんな彼と関係を持ってしまったのは、急遽任務地の近隣ホテルへ宿泊を余儀なくされた時だった。私がヘマをしたせいで、二人揃って総合病院で検査と治療を受ける羽目になり、結果終電を逃してしまったのだ。
 同行してくれた補助監督も含めた三人で三部屋とってもらったのだけれど、彼と私は一室で夜を明かした。
 生存本能——いや、生殖本能が働いたとでも言うのだろうか。怪我を負い焦燥感に駆られた私は、ひと息つく間もなく彼の部屋を訪ね、その胸板に縋った。そのままベッドへ雪崩れ込んだ時には、私の方が組み敷かれていた。
 悟くんが一連の流れでしかしてくれないキスを、彼は沢山たくさん私に送ってくれた。比べるつもりはなくとも、彼の私を求める必死さが、手間を省こうとする悟くんとは全然違った。
 最終的には、病院で塞いでもらった傷口が開くのも厭わず、私の方が無我夢中で彼を求めてしまっていた。

「なまえさんの事が本気で好きです」
 彼が眠りについたと思って、補助監督にバレないうちに部屋に戻ろうとしたら、後ろから抱きしめられていた。彼は私と悟くんの関係を知っている。そのうえでの言葉だった。
「受け入れなくていいです。好きでいさせて下さい」
 彼が真面目な男の子なのは、ここ数ヶ月間で痛いほど知っている。私はとても胸が苦しくなった。そして切なくなった。とっさの返答は、声が掠れて出ない。
 沈黙を肯定と捉えたのか、はたまたもうひと押しのつもりだったのか、振り向かされて私と彼はまたキスをした。
 そのあと私の唇はどのように動き、なんと答えたのだろう。甘くとても狡い台詞だった気がする。



 今回の任務同行は京都側の補助監督だったため、私はひとりで高専に帰ってきた。擦り傷や打撲痕は痛んだが、骨折や致命傷はなかったので反転術式を施してもらうまでもなく、このまま自然治癒を待つことになりそうだ。
 荷物も動作もやけに重い。疲労困憊の身体を鞭打って、私は最後の石段を登り終える。
 すると半分沈みかけた夕陽を背景にして、悟くんが立っていた。
 先程までとは違う汗が、背中を伝う。後ろめたいことをしてきたばかりなので、恋人との再会を喜ぶ気持ちは皆無で、どうしてという懐疑心だけが私の中で揺らめていた。今日彼が高専に居るとは知らなかったし、私もこの時間に帰ってくると彼に伝えてはいない。
 いつから居たのかはわからないけれど、悟くんは私が来ることを確信していたようで、逆光の黒い影の中でも宝石のような瞳は、真っ直ぐに私を射抜いていた。
「もう出さねぇから」
 赤く燃える夕焼けと夜に染まる空の境界で、彼は言った。聞いたことのないような、とても低く冷たい声だった。
 後ろが階段だということを忘れて、私は思わず後ずさる。浮遊感と後悔は一瞬だ。
 気を失う寸前、悟くんの腕の中で見た地平線に堕ち行く夕陽が、私の生涯最後の太陽となってしまった。


 あのときより、私は日光を全く浴びられない体質になった。現代最強の呪術師と成った五条悟の心を奪った罪と引き換えに、私は太陽の下で生きることを赦されなくなってしまったのだという。彼が私に課した縛りだった。
「じゃあ行ってくるね」
 ベッドの上で口づけを落とされてまもなく、地下室唯一の入り口が厳重に施錠された音を遠くに聞く。
 悟くんの帰りを待ちながら、これから私は老いて死ぬまで、この暗い部屋で一生を過ごすのだ。
逢魔時