降りた先では塗装の剥がれきった壁の出迎えがあり、右に折れたところですぐ目的の部屋の前に立った。今どき見ない、安いペンキで塗り固めたようなこのスチールのプレスドアは、一体何年モノなのだろうか。本当にやれやれだ。
あの男のガキの手掛かりがこんなところにあるとも思えなかったが、女のところを転々としていたヤツが、この場所に出入りしていたという事実に間違いはない。
事前情報として知ったここの家主の名前は、苗字なまえ。場末のクラブでホステスとして働く女だ。
アイツが客からヒモに成り下がったのか。あるいは金を払わずとも生活を共にしていたとなれば、言いようによっては成り上がったのか。高専の人間が集めたここ半年の伏黒甚爾の目撃情報は、このあたり一辺に集中していた。
確かな情報筋を信じ、俺は気を立て直すつもりで砂埃の付着した呼び鈴を押した。
……しかし人の気配はあるのに、何度チャイムを鳴らしたところで玄関扉が開かない。ただでさえ気乗りしないのに、苛立ちが募るばかりである。
だから思い切ってノブに手を掛けたのだが、大した力を込めずとも予想外に、まるで俺を迎え入れるかのようにその入り口は開かれた。
「おかえりぃ、——って誰?」
外観からして築何十なん年かという古いマンションの三階に、その女はいた。
昼を過ぎた時間帯だというのに、女は玄関すぐそばのシンクに手をつきながら、寝起きのようなぼんやりとした表情でマグカップの取っ手を握っていた。香りから中身はおそらく珈琲だ。
こちらを振り返ったことで、キャミソールワンピースの肩紐が片方落ちて胸元があらわになる。ある程度のところで止まったのでセーフに変わりはないが、少なくとも上は下着の類を身につけていないようだ。
それでも女は、慌てるでも身なりを整えるでもなく、当たり前のようにマグを啜る。俺だってそんなことで取り乱すほど、飢えてもいない。目線をあった場所へと戻した。
「なあ、禪院——じゃなくて伏黒甚爾の知人って言ったら上げてくれる?アイツについて、話聞きたいんだけど」
「君、高校生?」
「?まあ、そんなとこ」
「じゃあ犯罪者になるからヤダ」
高専の制服を身に纏う俺を、軽く上から下まで見たあと、女はそれだけ告げて身体の向きを変えた。そして空のペットボトルばかりが入った透明のゴミ袋の山を避けながら、ペタペタと足を鳴らし部屋の奥へとすっこんで行く。
……いやいや、ここまで来てそりゃねぇだろ。この時すでに俺は、狭い玄関の土間に立っていたのだ。
許可がないからと引き下がるほど、俺も暇ではない。脱ぎ散らかされたミュールの近くに外履きを脱いで、俺も室内へと踏み込んだ。
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入り口のゴミ袋が連なるダイニングキッチンとは一転して、奥の一室はとてもゆとりのある空間だった。
時間を忘れるような大きなシーリングファンが回る天井の下で、革張りのソファーに腰掛けた女は足を組み、先ほどの珈琲の続きを味わっていた。
「クッションとかないから、悪いけど私の隣に座ってくれる」
「……犯罪者になるから嫌だったんじゃねぇのかよ」
「勝手に這入ってきた分には知らないわよ」
そう言って、カフェインをまたひとくち含む。ずいぶんとテメェ勝手な言い草だ。しかしその言葉の意味は歓迎ではないにしろ、拒絶でもない。
俺は靴下のまま濃い色のフローリングの上で歩みを進め、すました表情を続ける女を見下ろす。相変わらず手足を晒した無防備な格好のままだが、今の時間でキャミソールの肩紐は直したようだった。掴んだら折れてしまいそうなほど細い肩なので、またいずれは同じことになるのだろう。互いに成人とはいえ、アイツとの体格差も大概だ。
わざわざ俺のために空けていたのか、はたまた定位置ではないのか、二人掛けのソファーなのでまさに真隣。入り口から見て手前である左側にドンと腰をおろすと、ちゃんと固定されていないのかソファーの足が少しだけ動いた。
「あの男、死んだんだよね」
さすがにヤツを自分が殺しただなんて、般ピーの前で口にするほど、俺も自分都合で生きてはいない。それに法のもとで生きる人間に、殺人犯だとパニックを起こされるのも面倒だ。
しかし、他者を慮るような生き方に変えたつもりもなかった。俺の親友ならば、もっと違うアプローチ方法をとっていただろう。だが生憎俺は、回りくどいのが苦手だ。
「言っとくけど、ここ数週間は私も姿を見ていないし、私にとってあの男は客以上でも以下でもない。身体の関係があっただけで、借金の肩代わりとか誰々の仇とか、そんなのは勘弁してほしいんだけど」
俺の台詞のあと間髪を入れず、聞いていないような事まで、女は早口で捲し立てた。少なくとも追っ払おうとしていた高校生相手に、吐き捨てるような内容ではない。正面に鎮座する真っ黒の液晶越しに彼女を見ると、まぶたを伏せ何かを堪えているようだった。
「そんなんじゃなくて。端的に言うと、俺が探してるのはアイツのガキなんだけど、お姉さん何か知らない?」
「尚更知らない。あの人に子どもが居たことも知らなかったわ」
「あ、そう。じゃあ行くわ。邪魔したね」
腰を上げ、俺はもと来た入り口の方へ踵を返す。大窓から差す西陽が俺の背を照らし、細長い影を作った。
元々望みは薄かったが、ガキを置いてきたのはそれより前ということになる。これでまた一から仕切り直しだ。
玄関で靴を履く直前、奥の方からすすり泣く声が聞こえた。
あの男と関係を持った女だなんて、考えただけで吐き気を催す。
それなのに、アンニュイな表情や華奢な肩に掛かる猫っ毛。加えて幼く見える素顔のわりにハスキーな声など、正直めちゃくちゃタイプだった。
この日、俺は弱みにつけ込むようにして、この女を抱いた。