この部屋を訪ね、苗字なまえと身体を重ねた回数を指折り数えたところ、今日で片手が全部埋まった。
「腹減った、なんか食わせて」
 夕陽がすっかり沈み暗くなった部屋で、素肌のままの彼女を抱き寄せる。生憎背を向けてしまっているが、仕事が休みなのかこの時間になっても、俺の腕を振り解くこともなく先にベッドから出ていく様子もない。
「……冷蔵庫と横の棚に少しなら食べ物があるから、適当に食べたら」
「作ってくんねーの」
 汗の引いた冷たい肌が心地良くて、より一層自分の内側へと彼女を招き入れる。すると顔を寄せたことによって、苗字なまえの柔らかい猫っ毛が鼻先をくすぐった。こんな事はむず痒くて仕方がないのに、いつまでも余韻に浸っていたくなる。
「作らない。男に対して料理は振る舞うものじゃなく、ご馳走してもらうものだって、お店のママから教わってるもの」
「ケッ」
 先日同じ時間帯にここを訪れた際に、今日は同伴出勤だからもう出ると、完全に支度を終えた派手な姿に追い返されたことを思い出す。あの日は、どんな男と何を食ったのだろうと、嫌な思考が頭を巡った。
 しかしこのままここで駄々をこねても、彼女が何かをしてくれる様子もない。なので名残惜しくも回した腕をほどき、俺は上半身を起こした。
 脱がされたTシャツはどこへいったのやら。とりあえず見えるところにあった、白いカッターシャツを羽織った。
 ベッドから降りて、シーリングファンが回る障害物の少ない部屋を通り越し、玄関と併設されたダイニングキッチンへの扉を引く。手探りで壁際の照明スイッチを探り当てたあと、空のペットボトルばかりが入ったゴミ袋の山を跨いで、俺は一直線で小ぶりな冷蔵庫を目指した。
「……」
 たどり着いた先で腰を落とし、その中を覗き見るも、大方予想通りと言ったかんじで。一応生野菜や期限の長い加工食品、冷凍室には肉類など多少の食材や調味料はあるものの、日々の生活をここで送っているとは思えないほど、苗字なまえの部屋の冷蔵庫は綺麗に片付きすぎていた。
 隣の棚とやらも、チョコレート菓子と食パンとパスタの乾麺が置いてあるだけで、あとは下段にミネラルウォーターのストックがびっしりと詰め込まれているのみである。
 あの女、食い盛りの男子学生に、これでどうしろというのだろう。



「何作ってるの」
「ほぼ具なしのナポリタン」
 調理も終盤に差し掛かった頃、苗字なまえは奥の部屋からひょいと顔を覗かせた。
 傑が前に部屋で作っていたのを見様見真似でやってみたのだが、味付けが完成されたケチャップと塩コショウだけあって、火をかけながら味見をしてみたが悪くはない。ちなみに具材は、包丁を使わずそのままぶち込めるミニトマトとウインナーのみで。唯一あった材料のピーマンも、わざわざ切り刻む手間をかけて入れるほどの好物には遠かった。
「食いたいの」
 振り向いて、入り口のドアにもたれ掛かる彼女に問う。すると、暗い部屋で見つからないと思っていた俺の黒いTシャツを、苗字なまえは素知らぬ顔で身に纏っていた。
 見事に尻の下まで覆い隠されているのだが、華奢な彼女が被せられるように着たそれに、なんとも言えない気持ちになる。俺がこれを着て帰らなくてはならないという、自覚がないのだろうか。女は平然と答える。
「余分があるなら。ないならいい、別のもの食べるから」
「皿二枚持ってきて」
 コイツが食うか食わないかは別として、はじめからパスタは二人前茹でてあった。どうせこれだけの量じゃ腹は満たされないので、俺にとって腹六分目が五分目になろうと、今さら同じことだ。
 ガサゴソと音を立てながら、ゴミ袋の山を晒した白い足で避けながら、苗字なまえはこちらに近づいてくる。多少の恥じらいはあるのか、Tシャツの裾を指で押さえている。
「つーかなんでこっちの部屋はゴミだらけなわけ」
「至る所にあるよりいいでしょ。それに燃えるゴミとプラスチックゴミの日以外が、わからないのよ。そのうちステーションに捨てに行くから放っておいて」
 ペットボトルばかり残る理由が、ようやくわかった。ゴミ袋が散乱する部屋に居ながら、どこもかも清潔に保たれ整頓もされているので、この女案外と性格は神経質なのかもしれない。
「それよりこっちで盛りつけて」
 コンロの火を止め、壁際に設置されたダイニングテーブルに並べられた白い皿へ、言われた通り俺は色味の少ないスパゲティを盛りつけにかかる。割合は三対二くらいで。もちろん俺が三だ。
 二つ並んだグラスには、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを彼女が注いだ。その間にフライパンはシンクへ置いた。狭いテーブルなので、二脚しかない椅子に向かい合って腰掛ける。
「「いただきます」」
 銀色のフォークを自分の口へ運ぶ前に、俺は正面の彼女を見た。コイツは男に料理は振る舞わないと言ったが、俺の家でも料理は女に振る舞うものだなんて教えられていない。つまり俺もこんな風に女に尽くす真似は、今までしたことがなかった。
「美味しい」
「あっそ」
 ケチャップの色が移った唇が弧を描く。俺も食べてみたが、やはり味は悪くはなかった。
「そういや、鍵かけねーの」
 食事中、視界に入った玄関扉を見て女の一人暮らしで不用心だと思い、つい口にしてしまった。もうアイツは帰って来ねえのに、という言葉はとっさのところで飲み込んだ。
 カタン、とフォークと食器がぶつかった音がした。無論俺ではない。彼女は客商売をしているくせに、ポーカーフェイスが壊滅的に下手くそだ。
 けれどトマト色に染まったスパゲティをフォークに巻きつけながら、苗字なまえは言った。
「今は君が来るでしょ」
 家主である彼女が居ようが居まいが、いつだってこの部屋の入り口に、施錠はされていない。
#03