任務終了後の昼下がり。用事があると言って補助監督と別れたあと、自分でも呆れるほど自然に、俺は苗字なまえの部屋へと足を向けていた。
 湿気の多いエントランスをくぐって、変わり映えのない重い玄関扉を押すと、いとも簡単に室内へと入れてしまう。彼女によると、今は俺が来るから鍵を掛けないらしい。強がりで口にした言い訳にせよ、悪い気はしなかった。
 靴を脱ぎ、寝室を兼ねている奥の部屋にと思ったところ、妙に室内が静まりかえっている事に気がついた。いつもは夕方に近い昼過ぎに訪ねることが多いので、今の時間だと家主はまだ眠っているかもしれない。夜の仕事をしている彼女は、明け方にこの部屋へ帰宅することがほとんどだ。
 しかしよくよく目を凝らすと、壁を挟んでユニットバスに人ひとりのシルエットが見えた。風呂の方にいるのだろう。良すぎる目も考えものである。
 一応ノックをして扉に手をかけると、苗字なまえは見慣れた部屋着のキャミソールワンピースを着たまま、バスタブの縁に腰掛けていた。彼女は少しだけ張った湯を足先でちゃぽちゃぽと遊びながら、俺には目もくれず文庫本のページをめくり続ける。
「何読んでんの」
「冷静と情熱のあいだ」
「へー」
 タイトルは聞いたことがあるが、内容はよく知らない。でも恋愛小説だということだけは知っている。
 その間にも苗字なまえは片手で文庫本を持ち直し、もう片方の手でグラスを煽った。全て飲み切らないまま風呂場の小窓の窓枠にそれを戻すと、カランと氷が音を立てる。
 同じ場所には酒ビンが並んでいた。貼られたラベルの読み方は、多分アマレット。酒には詳しくないが、甘い香りからしてウイスキーというよりは、リキュールではないだろうか。
 グラスの中身とともに、赤みがかった琥珀色の液体が、窓からの光を反射する。残量はビン底すれすれだ。自分一人でここまで飲み切ったのか、あるいは——。俺は首を横に振った。
「今日は休みなの」
「夜から仕事よ」
「仕事前に飲むなよ」
「どうせ向こうでも飲むから同じでしょ」
 もう昼をとっくに過ぎているのに、せっかく早起きしたんだから好きなようにさせて、と彼女は言う。
 なんとなくだが、この女は三十半ばくらいまでしか生きられないだろうなと、俺は勝手に思った。病気をするとか身体を壊すとか、そういうのじゃなくて。世間一般の常識だとか人の悪意、あるいは正論なんかに押し潰されて、そのまま立てなくなるような脆さを彼女から感じた。
 でもきっとそれは苗字なまえ自身の問題であり、俺にはどうすることも出来ない。
「なあ時間があるんだったら、もっとイイコトしようぜ」
 だから今はそんなことには目をつぶって、俺は自身の欲に従って彼女の耳元で囁いた。
 苗字なまえはグダグダ言いつつも文庫本を閉じる。俺はそれを了承と捉え、そのまま華奢な背中と膝裏に腕を回し、彼女を抱き上げた。足先からポタポタと雫が落ちるのも構わず、ユニットバスを出る。
 結局アマレットの酒ビンとグラスは、俺が帰るまでその場に置きっぱなしだった。
#04