生まれたときから自分が、いわゆる全てを持ち得る人間だったので、こんな風に他人を羨んだことなどなかった。
「ぐすっ、ひくっ、ぐすっ、」
「もう大丈夫だよ」
「……ありがとう、傑くん」
 俺の目線の先で、親友に肩を抱かれる女は苗字なまえといって、今回発生した呪霊の被害者の一人であり、傑のかつての級友だという。
 以前の二人が、どれだけ親しい間柄だったのか、俺が知るところではない。だが、いつまでもメソメソと泣き続ける女の頭から肩を、傑の手が何度も往復する。すると、そうすることが当たり前とでもいうように、苗字なまえは傑の胸元に身体を預けた。
 いい感じで膨らんでいたチューインガムが、俺の前でパチンと弾けるのと同時だった。

 先日の件がキッカケとなり、ただの般ピーだった苗字なまえは、完全に呪霊を視認出来るようになってしまった。また事実はそれだけにとどまらず、彼女は少し教えただけで帳くらい簡単に下ろせる才能を秘めていた。つまり窓を飛び越えて、補助監督くらい簡単になれてしまうポテンシャルの持ち主であった。
 そんな人材を呪術界が簡単に手放すとも思えない。けれど、誰に諭されるでもなく苗字なまえは「自分に出来ることがあるのならば、なんでもしたい」と、その小さな唇から発した。なんておこがましい言葉だろう。今のコイツが出来ることなんてほんの一握りである。
 しかしそうなれば、人手不足が常のこの業界は両手を広げての大歓迎。人が死ぬから人がいないと、苗字なまえに教えてやった親切な人間はいたのだろうか。
 さすがに転入までは親が許さなかったそうだが、彼女は呪術や呪霊について学ぶため、夏の長期休暇を利用してしばらく高専を出入りすることになった。



「流すイメージで。そうそうなまえは上手いね」
「傑くんの教え方が上手だからだよ」
 ただの折り紙だった蝶々が呪力を纏い、青空を舞う。けれど半端な高さまでしか空中を漂えないそれは、自然の青に溶け込むことなく、いつまでも目についた。しかしまあ、こんな初歩的な式神術なら、わざわざ傑がレクチャーしなくて良いだろうと思うのは俺だけだろうか。
 硝子も硝子で、暑いだとか日焼けするだとか文句を垂れつつも、ああしろこうしろと日陰から苗字なまえに指示を与えている。とてもじゃないが、この女は反転術式まで会得出来るレベルではないので、ほぼ医務室にいる内勤の硝子から教わることこそ皆無なはずだ。
 そもそも傑も硝子も中庭に居るというからやって来たのに、苗字なまえのお稽古に付き合わされるこの時間は、俺にとって一体なんの意味があるのだろう。
 茹だるような夏の日に、蝉の鳴き声がやけに頭へと響いた。ああ、苛立ちが止まらない。
「なあ、さすがに暑すぎ。自販機行こうぜ」
「ごめんね、五条くん。特訓に付き合ってもらってるし、私がみんなの分買って——「今日は私が奢るよ。コーラもアイスコーヒーも気分なんだ」
 炎天下でかいた汗を拭いつつ、苗字なまえの言葉に被せるように、傑が言った。彼女にそうさせない為だ。そういや、このあいだ食ったプリンもこの女の差し入れだったか。傑はそういうところに、よく気がつく人間だ。
「じゃあ夏油の奢りで、私も二本分選んでいいってことだね」
「それは聞かなかったことにするよ。ほら、なまえも悟も行くよ」
 傑が先導して、硝子と苗字なまえがそれに続いた。屋外の目が眩むような日差しから一気に暗くなった校舎内の薄暗い廊下を、俺達は進んでいく。
 前を歩く三人を見ながら俺は思う。どうして当たり前のように、この風景のなかにコイツが紛れ込んでいるのだろうか。俺はそれが不思議でしょうがなかった。



「あ、お疲れさま、です」
 目が合った。と同時に、自信が喪失していくように語尾が小さくなっていく。
 気晴らしにというほどでも無かったが、西陽の差す体育館でひとりバスケットボールをついていると、苗字なまえがひょっこりと顔を覗かせた。おおかた傑のことでも探しに来たのだろう。俺を見た途端、期待をこめた表情が一瞬で萎んでいったのを、この目は見逃さなかった。
 彼女が高専で学ぶのは明日までだ。それ以降コイツは初歩的な術を扱えるだけの、ただの女子高生に戻る。多分窓としてこれからも高専に協力はし続けるだろうが、苗字なまえは呪術師にはならない。
 この一ヶ月間、彼女を見てきて嫌というほど思い知った。この女がここに学びにきた一番の目的は、きっと傑だった。
「何か用だった?」
 傑がいないことが分かったのならば、さっさと立ち去ればよいものを。モジモジと体育館の入り口に佇み続ける彼女に、俺は問う。この女におどおどした態度を取られると、比例するように苛立ちが募る。ったく、俺が何をしたというのだ。
「いえ、そんなんじゃなくて。音がしてたから、誰かいるのかと思って」
「あっ、そう」
「!」
 苗字なまえは肩を跳ねさせた。
 なんてことない。俺がリングを目掛けて投げたボールが、ゴールをくぐり床へと落ちただけだ。低音を響かせながらバスケットボールは、重力に従ってバウンドを繰り返す。
 それを拾うため、俺は大股で彼女のいる体育館の扉の方へ足をすすめた。コイツの方がよっぽど近い位置にいるのに、その場に立ち尽くすままである。この女、とことん気が利かない。それだけのことに、無性に腹が立った。
 すでに定位置へと落ちたオレンジ色のボールを通り越し、俺は苗字なまえの前に立つ。サングラス越しに見下ろした表情は、怯えを含んでいた。
 もうそれも見慣れている。そのまま彼女の顎を持ち上げ、俺は苗字なまえの唇を奪った。



「傑ってさあ、年上の女が好みだって知ってた?」
「……そんなこと、ずっと昔から知ってたよ」
 抵抗らしい抵抗はされなかったものの、唇を離したとき、ただでさえくりんと丸い苗字なまえの目は、さらに大きく見開かれていた。
 けれどそれも嫌悪感より、驚きと疑問が先立っただけのことだろう。事実彼女は自身の言葉のあと、決壊したようにそこから雫をポロポロとこぼした。
「みっともねー、往生際が悪ぃ女」
「……ごめんなさい」
 俺の見当違いな言葉に対し、それだけを口にして苗字なまえは両手で顔を覆う。
 今回彼女を泣かせたのは、間違いなく俺だ。それでもこんなとき、あの日の傑のようにコイツの頭を撫でてやれたら、きっと俺の人生はもっと違ったものになっていたのだろう。傑は女に対して、このような暴挙にも出ないし、非難するような言葉も選ばない。
 再びこのうえなく、俺は親友を羨ましく思った。
Envy