シャワーを浴び終わり部屋に戻ると、浴室に向かう前と寸分も違わぬ姿でソファーに沈むなまえがいた。
「お先にー」
 濡れた髪を拭きながら、なるべくいつものトーンを意識して、彼女に一声かける。それでも幼い僕の婚約者は、驚きを隠せぬまま肩を飛び上がらせた。
「!あっ、はい。ありがとうございます、私もいただいてきますね」
 そう言うと、彼女は抱えていた膝を床へと下ろし、深く腰掛けていたソファーから身体を起こす。すると制服から着替えた部屋着のワンピースの裾が、ふわりと浮き立った。いい趣味してると思ったが、そういや僕が贈ったものだったか。
「もしかして昼間のこと考えてた?」
 つけっぱなしのテレビは、バラエティ特番から夜の報道番組に変わっており、世に疎い少女がこれを真剣に見ていたとは思い難い。本当に分かりやすい子だ。
 入れ替わるように、今度は僕がなまえの座っていた場所へ腰を下ろした。その際に、彼女の両手を握るのを忘れない。最初から逃すつもりはなかった。
「……少しだけ」
 さすがに言い訳が通用しないと踏んだのだろう。そう言いつつもどんどんと眉尻が下がっていくので、きっと少女の胸の中には、僕に対し悪意を持って告げられた言葉が、今も渦巻いている。
 
 自称重鎮ばかりが集う無意味な会合とやらまで少し時間が出来たので、なまえとともに高専内の部屋へと戻る最中の出来事だった。
 名前は知らないが、顔は覚えていた。確か禪院家の人間だ。偶然だったのか、意図して現れたのか。なんにせよ幅のある舗道を距離を保ったまま、ただすれ違うだけのつもりだった。
「またずいぶんと可愛らしい連れ合いだな」
 あからさまな嫌味に対し、制服姿の彼女は足を止めた。それを舐めるような視線で、上から下まで隈なく見たジジイは、何に満たされたのかその場で下卑た笑みを浮かべる。
 僕となまえの関係は公にはされていないものの、緘口令が敷かれている訳でもない。今となっては呪術界隈の公然の秘密とでも言おうか。少なくとも僕の前で、なまえを見下す態度をとった愚か者はいなかった。
 だからそれを理由に、首を飛ばそうと思った。見せしめではなく、純粋な罰として。
 狙うは一点のみであり、下手に動くと一思いに死ねねぇぞという脅し文句をつけた。身体を回った呪力を指先に集中する。収束と発散、術式反転——
「っ、」
 まさにそのときだ。バチンと派手な音を立て、僕の手を何かが弾いた。無論、内側にいるのはなまえだけである。
 後ろを振り向くと、怯えを含んだ大きな瞳と視線がぶつかった。……そういうことか。身を護る術として教えたもので、彼女は僕を見事に止めてみせた。
 後ろでジジイが何か吠えていた気がするが、そのままなまえの手を引いて、僕達は部屋へと帰ってきた。



「私と居るせいで、さとるさんが不快な思いをしてしまうのはつらいです」
 僕が握った手のなかで、少女の細い指先が微かに震える。自分でもわかっているのか、それを隠すように彼女も僕の手を握り返してきた。
 なまえは最初からずっと、僕に自分がふさわしくないと思っている。だから僕のそばに居ながら自身を卑下する言葉を吐くし、僕のなかに安心材料を見つけられない。
 このまま腕を引いて胸に抱いて、なまえに気休めの言葉を掛けてやることは簡単だ。キスをして、服を脱がせて、セックスをして。どれだけ僕がコイツを愛しているのか伝えるのも、もう慣れたものである。
 それでも彼女は変わらない。
「僕はどうしてもなまえがいいんだけど」
「……私にも、さとるさんしかいませんよ」
「うん、知ってる」
 結局どうしようもなくなって、今晩も僕はこうして自身の腕の中に彼女を閉じ込めてしまう。本当、芸のない大人だ。
 苦笑しつつも、首筋にキスを落としながら、部屋着のワンピースをめくって服のなかに手を入れる。男が女に服を贈るのは、それを脱がせるためだと昔親友が言っていた気がするが、僕はもっと純粋な気持ちでなまえにこれを買い与えたはずだ。
「私まだお風呂に入ってないから汚いですよ」
 肩に置かれた手は、とても拒絶なんてしていないのに婚約者の小さな口は、そんなことを呟く。下着のゴム部分に指を引っ掛けると、彼女はより一層僕に擦り寄ってきた。
「汚くなんてない。それに、あとでもう一回僕と一緒に入ればいいよ」
 身体の形を確かめるようにギュッと一度だけきつく抱きしめたあと、僕はなまえをソファーの上に組み敷いた。
Wolf moon