過去に一度だけ、苗字なまえをマンションの外で見かけたことがある。俺が知る起き抜けの姿とは一変して粧しこんだ彼女は、築地と銀座の間くらいの場所で、優男風のヒョロい野郎と腕を組んで歩いていた。
 反対側の舗道にいる俺には気付かず、苗字なまえは酒に酔ったようにふらふらと男に凭れ掛かりながら、頼りないピンヒールを鳴らし続ける。すると彼女の細足を見兼ねたのか、あるいは焦れたのか。道路側を歩く男が手を挙げて、二人は道端でタクシーを拾った。
 車に乗り込む際、苗字なまえと同じく線の細い野郎は名残惜しそうに密着した身体を離したのだが、それも束の間で。すぐに優男の手が、身体を支えるべく彼女の腰に添えられた。そしてガキでもないのに、低い車体に対しても頭をぶつけてしまわぬよう反対の手がそれを庇い、さっさと閉めればよいものを彼女へ向けて何やら笑顔で囁き続ける。驚いたことに苗字なまえは、男からとても丁寧に扱われていた。
 野郎が車内へ押し入ったところでそのままドアが閉じて、何事もなかったかのようにタクシーは発進して行く。なにか悪い夢まぼろしでも見せられているような気分だった。横断歩道の赤信号はとっくに青になったというのに、俺はその場をしばらく動くことが出来なかった。
 それから信号が二つ変わり、立ち尽くす俺を不審がる周囲の視線にもようやく気がついた頃。さすがに六眼でも、都心を車で去った苗字なまえの気配だけを辿るのは至難の業となっており、それが逆に俺の頭へいくらかの冷静さを取り戻させる。
 彼女の職業は雇われのホステスだ。夜とはいえ、夕方から間もないこの時間に男と出歩くとなれば、きっと食事や買い物を兼ねた同伴出勤だったのだろう。行き先の確証はないが、このまま店に向かったとなれば、何となく俺のなかで辻褄が合った。
 奢らさせれた飯の分くらいはそれ相応のもてなしがあるだろうが、男は結局そこでもさらにあの女へ金を落とす羽目になるだけで、愛の見返りはない。きっとこれが彼女の日常だ。そう思うと、俺は握った拳を少しだけ緩めることが出来た。
 今現在、苗字なまえの部屋まで上がり込む男は俺一人だと信じたい。



 なんだか胸騒ぎがした。その一言につきる。
 午後七時三十五分なんて時間は、夜の店で働く苗字なまえからすれば、とっくに家を出ている時間帯だ。
 それに俺がいつも彼女の部屋を訪ねるのも、昼過ぎから夕方にかけてで。たいてい起床して間もない彼女に有無を言わさず、身体を重ねるところから始まる。
 だから仕事があると言われた時には、こんな部屋に一人残されても仕様がないので、午後六時過ぎには自らマンションを出ていくし、たまの休日だと言うから抱き潰したとしても、交通機関が動いているうちに帰されて、なし崩し的に泊めてくれたことすら一度もない。
 余談だが、今でも伏黒甚爾の生活用品だったと思われるものが、彼女の部屋のクローゼットの中には眠っている。それなのに、俺にはちっとも許してくれない。
 俺は学生だからうんたらかんたらと、彼女はよく口にする。けれどそれだけが理由ではないはずだ。苗字なまえは妙なところで、他人に対する線引きがはっきりしていた。

 補助監督の車の送迎があったので、そのまま高専まで乗っけてってもらうのが、山奥まで戻る手間ひまを考えたら最短だと知りつつも。彼女のマンションまで徒歩圏内だと思うと、俺の口は適当な言い訳をつむいで車を降りていた。
 日が落ちると、よりカビ臭くなるエントランスを抜けて、行き慣れた三階までエレベーターでのぼる。廊下の蛍光灯は、完全に切れるまで交換しないのか、相変わらずチカチカと点灯を繰り返していた。
 居なければ勝手に居座ってやる、というのが本日の心持ちだった。しかし、やはりというべきか。俺の勘は冴えていた。
 さて、この部屋の家主に客人の来訪を知らせるチャイムの無意味さを、俺は最初の訪問時にきちんと学んだのだが。今現在、分厚いスチールドアの奥には人の気配が二つある。それもかなり近距離に重なっており、苗字なまえが家族やただの友人と過ごしているとは考え難い。
 それでもガチャリと大きな音が響くのも憚らず、俺は扉を押した。想像しうる最悪がそこにあろうと関係ない。ただただ身勝手に、怒りにまかせてぶち壊すだけだ。
 けれども、室内は予想外に静まり返っており、漏れ出す灯りすらひとつもなかった。そのうえ想定していたものとは全く違う、別の焦燥感が俺を襲う。
「おい!テメェ!」
 奥の部屋への締まりきらないドアの隙間から見えたのは、床にだらんと投げ出された女の四肢に乗り上げる、見知らぬ背中だった。
#05