「は?一年全員病欠?」
 帰ってくるや否や可愛い生徒達ではなく、学長の自らの出迎えとあらば、軽く挨拶をしてただ通り過ぎるだけともいかず。そのうえ投げかけられた言葉も「はいそうですか」と聞き流せるものではなく。全員ということは、僕の婚約者である少女も少なからず含まれている訳で。
 もともと僕の方がマメに返信しているメッセージアプリに、既読すらつかない理由にようやく合点がいった。
「流行り病でな。四人まとめて道場に寝かせて、パンダに看病させている。呪骸のパンダならともかく、さすがのお前でも病原菌までは避けられんだろう。……くれぐれも寄るなよ」
「はいはい、わかってますよ」
 僕はひらひらと片手で学長をかわし、すっかり日が落ちて鈍い色の照明が灯る廊下に出る。もちろん足先を向けたのは、なまえがいるであろう鍛錬場だ。
 屋外に出るまでもなく、憂太とリカの禍々しい呪力の奥で、一輪だけ凛と咲く白い花のようななまえの呪力を僕の目はすでに捉えている。高専内に限定されるなら尚更、少女の気配をたどることなど息をするほど簡単で、なんなら目を閉じていても辿り着けるだろう。



 懐かしいという感情を抱いたくらいなので、久方ぶりであることに違いはない。行き着いた先で靴を脱いで、主に学長とパンダが使用している道場の、万年立て付けの悪い引き戸を僕はひく。
 すると暗闇と静寂のなか、聞いていた通り畳の上には布団が四枚、仲睦まじく横並びに敷かれていた。頭の方では、看病を仰せつかっているパンダが図体を丸めて眠っている。なんとも微笑ましい光景だ。ここに寝かせられているということは、みんな完治には至っていないのだろうが、それぞれの穏やかな寝顔に、僕は蓄積した疲労がすっと身体の奥で解けていくような気がした。
 おさまりの良い風景を壊してしまわぬよう慎重に、僕はその空間に足を踏み入れる。全員大切な生徒にかわりはないが、僕がここから持ち出したいモノは最初からたったひとつだけだった。
 この場からひとり少女が居なくなったところで、心和む光景であることに変わりはない。けれど、今のように自身の腕の中に彼女を閉じこめていなかったならば、なまえが存在しない風景なんてものは、僕にとって限りなく物足りないものであっただろう。
 ただ眠っているだけなのに、彼女の薄く開いた口からは熱い息が漏れ出し、時折肩を揺らしている。通常時よりも高い体温を放つ小さな身体を毛布で包んで、僕はこの場をあとにした。



 抱き上げた少女の分かれた前髪の間に唇を寄せたが、やはりいつもより熱い。だが外気で冷えてしまわぬよう、僕はなまえをより一層自分の内側へ招いた。
「……ぁれ?」
「ごめん、起こしちゃったね」
 焦点の定まらない瞳を覗きこみつつも、僕は歩みを止めない。寝起きの頭で寒いだとか風邪をうつすだとか、もっともらしい拒絶されたところで、彼女を今さら元の場所へ返す気など更々ないからだ。
 それ以前に、僕の歩幅に合わせてゆさゆさと揺れる身体は隙間なく毛布でくるんであるので、腕ひとつ出せぬまま、なまえはただただ部屋まで運ばれていくだけである。為されるがままの小さな体躯は、いつだって本当に可愛らしい。
「もうすぐ部屋だから、あと少しだけ辛抱してね」
「はい」
 そう言うと、なまえは僕の胸板にこてんと頭を預け、再びまぶたを伏せた。常に遠慮を建前にする少女が、ここまで無抵抗なのも珍しい。自らの手で寒空の下に連れ出しておいて、快方に向かっていないのかという、一抹の不安を抱いたくらいである。
 すっかり暗闇に染め上げられた夜道を、僕は無言で歩いた。

「今夜は満月なんですね」
 目を閉じたからといって、なまえは再び眠ったわけではなかったようである。通常よりも掠れた声に視線を落とすと、とろんとした瞳は僕を通り越して、夜空を見上げていた。
 一瞬反応が遅れたが、そこに映り込んだものがあまりにも美しかったので、僕も足を止めて彼女と同じように天を見る。
「綺麗な月だね」
 散りばめられた星々の中心で、まん丸に満ちた月は堂々と白く輝いていた。控えめな光は自らの力で放たれるものではないが、間違いなく夜空に唯一無二である自身の存在をしめしている。
「……このまま死んでもいいくらいです」
 なまえを見下すと、今度はちゃんと目が合った。するとすでに上気している頬が、月光に照らされてさらに赤く染まる。
 ああ、そうか。僕にとっては何気なく口にした言葉だったけれど、腕の中にいる少女にとっては——。
「ありがとう、愛してるよ」
 僕はなまえを抱き上げ直し、彼女の耳元でその言葉を囁いた。それからその柔らかいほっぺたに、僕が飽きるまで何度か触れるだけのキスをした。
Snow moon