暗闇のなか室内へ飛び込み、俺は冷静さとはかけ離れた動作で苗字なまえにのしかかる人間の首根っこを掴んだ。体格からして男である。それにこの感じ、普段対敵する呪霊や呪詛師とは違い、ただの一般人だ。
 だからと言って、今の俺に力を加減出来るような理性はない。彼女と引き剥がすため、俺は腕ずくで男をそのまま後ろへ放り投げようとした。しかし胴体が浮き上がったにも関わらず、そいつは女の首から両手を離さない。
「いい加減にしろ!」
 部屋中に響く大声で、俺は怒鳴った。だが首が締まる息苦しさから、男は唸り声をあげるものの、俺の方へは一目なりとも視線を向けない。とんだ執念である。コイツにとって、苗字なまえはそれほど憎い存在なのだろうか。
 けれど、男の奥で力なく垂れ下がった彼女の細腕が見えたとき。怒りで埋め尽くされた俺の頭から、嘘のようにサッと血の気が引いた。
 目の前が真っ白になった次の瞬間には、あらぬ方向へひん曲がった男の首と、ドサリと音を立て床に落ちた苗字なまえの姿が、俺の視界にうつっていた。



 ベッドに横たわらせた彼女が目を覚ましたのは、それから一時間ほどあとの事である。
「ん……」
「起きた?」
「……いま何時?」
「夜の九時前。身体起こす?」
「うん、起きる」
 鈍い瞬きを繰り返す彼女の、首の後ろを俺の片手で支えながら、ゆっくりと上体を起こす手助けをする。体格差のある成人男性の両腕で、苗字なまえの細い首は絞められていた。だが触った感じ幸いにも骨は折れていないようだし、荒れていた呼吸もすぐにきちんと整った。起き抜けの受け答えも、これだけしっかりした言葉が出るのなら、心配していた頭の方も大丈夫だろう。
「水かなんか飲む?」
「ううん、いらない」
 首を横に振ると、そのまま苗字なまえのまぶたが再び落ちてゆく。その代わりに、ベッドへ腰掛けた俺の肩口へ彼女の上体が預けられた。決して溢さぬよう、俺はそれをしっかりと抱き留める。
「覚えてんの?」
「うん、覚えてる」
「アイツ誰?」
 男の遺体は小さくして窓から捨てた。だからもう、コイツを襲った人間はこの世にはいない。
 外からのネオンに照らされて、華奢な首を一周した内出血が目に入る。気を失っているとき、傷口を確かめるため軽く触れただけだったのに、苗字なまえは顔を顰めた。見ているだけでとても痛々しい。あの男——伏黒甚爾と対峙して以降、俺は呪力の核心にも迫ったはずだが、同級生の女とは違い他人を治すのは未だ専門外である。
「多分店のお客さん。でも私の常連さんじゃないから、はっきりどこの誰かはわからない。それより君が追っ払ってくれたんだよね。怪我しなかった?」
「俺はなんともない」
「良かった」
 そう言って、目を閉じたままの苗字なまえは、ゆっくりと息を吐く。俺の五体満足を、嘘偽りなく安堵しているようだ。
 そのまま彼女の額に口づけを落とすと、くすぐったそうに身を捩った。その様子が愛しくて、何度か同じ動作を繰り返す。

「……なあ。抵抗出来なかった、抵抗しなかった、どっち」
 途端に身体が強張り、暗闇のなかで大きな目が見開かれる。本当にいつだって、この女は表情を作るのが下手くそだ。
 けれど俺は、苗字なまえへの厳しい問いを撤回するつもりはなかった。俺にとっても彼女にとっても、曖昧にしてはならないことだと思ったからだ。
 縋るように見つめられたところで、結局俺から差し出せるものは、これからの未来しかない。初めて会った日、アイツが空けていった隙間を埋めてやるとは言ったが、それは俺が作る思い出で、だ。過去は過去でしかなく、苗字なまえの記憶の中のアイツに俺は成り代われない。
 逃れられないと悟ったのだろう。華奢な腕が俺の背に回り、胸板に顔が埋められる。直接の触れた部分からじんわりと熱が伝わってきたので、なるべく優しく頭を撫でた。
「甚爾さん、死んじゃったんでしょ。私も疲れてるの。終わりでいいから、彼に逢いたい」
 もともと弱くて繊細で、世間の正しさにもついていけず、さらには最愛の男も死んで、この数ヶ月間の彼女の生きる理由は、きっと過去にしかなかったのだろう。動かなくなった男を見たとき、彼女から抵抗されたような跡がひとつもなかった。
「さみしい、つらい、愛してたの」
 出逢った日と同じく、苗字なまえは俺の腕の中で子どものように泣きじゃくった。
 そして泣き疲れて眠ってしまった彼女をベッドに横たえて、自分もその隣に寝転ぶ。波のようにドッと疲れが押し寄せて、俺もすぐ意識を手放した気がする。
 この日初めて、俺は彼女の部屋で夜を明かしたのだった。
#06