翌朝俺が起きると、カーテンはレースのみになっており、日光のあまりのまばゆさに目が眩む。布団のなかでモゾモゾと身体を動かし、何度か瞬きを繰り返しているうちに、ソファーに腰掛け何も映さない正面のテレビを見つめながら珈琲をすする、苗字なまえの姿を俺はとらえた。
 彼女はこちらに背を向けたままであったが、俺が伸びをすると同時に「おはよう、よく寝てたね」と真っ黒な画面越しに声が掛けられる。
「うん、おはよ」
 返事をしつつ、俺の口からは大きなあくびが漏れ出した。熟睡というのが久しぶりすぎて、寝過ぎて眠い的な例のアレだ。
「ねえ、あの人最期に何か言ってた」
 朝の挨拶に続き、気軽に本日の天候でも尋ねるかのように彼女は俺に訊いた。まさにベッドから立ち上がる寸前であったため、俺は動きを止める。
「あー…、息子を好きにしろって」
「そっか」
 それだけ言うと、苗字なまえはマグカップを持ったまま立ち上がり、奥のダイニングキッチンへ引っ込んでいった。
 彼女がいうあの人が、いわゆる伏黒甚爾を指していることに違いなかったようだが、これが正答だったのだろうか。優しい嘘とやらも今になって頭に浮かぶが、そう俺が思い悩んだところで、やはり過去も事実も変えられない。
 ベッドへ座ったままでいると、何やら香ばしいかおりと、油がはねる音が耳に届いた。昨晩はあんな出来事があり夕食を食べ損ねていたので、思い出したかのように腹の虫が鳴る。
 そのうち苗字なまえが隣の部屋から、ひょっこり顔を覗かせた。
「朝ごはん作ったからおいで」



 以前と同じダイニングテーブルの上には、これまた以前と同じ白い平皿が並んでいた。しかし今回その上にはバターがトッピングされた厚切りトーストと、レタスとプチトマトが添えられたベーコン入りのスクランブルエッグが乗っており。それとは別にコーンポタージュとヨーグルトが置かれ、二人掛けのテーブルには彼女の手によって、とてもらしい朝食が用意されていた。
 俺のコーヒーには事前に砂糖が溶いてあるということで、促されるまま席につく。かなり寝たことに変わりはないが、意外にも時刻はまだ朝の七時半過ぎだった。
 中身がペットボトルばかりのゴミ袋に囲まれながら、彼女の合図とともに食事を始める。以前はあれだけ嫌がったくせに、苗字なまえが振る舞ってくれた朝食は、簡単なものばかりではあったが好きな人が作ってくれた料理というだけあって、俺にとって特別に美味かった。そして昨日のことが嘘だったかのように、俺が主に話す普段通りの雑談を彼女とした。
「近々引っ越そうかなと思うんだけど」
「いいんじゃねーの」
 守秘義務を遵守しつつした高専の学生寮の話の流れに次いで、苗字なまえがふと思いついたように口にする。だからつい俺もいつもの調子で返してしまった。
「……襲った男なら、もう来ねえとは思うけど」
 最後のプチトマトを突き刺しながら「もう死んでるし」と心の中でごちる。俺が殺した、という言葉をこの女の前で飲み込むのは、これで二度目だ。
 けれど彼女は首を横に振る。
「そうじゃなくて。私がここに居続ける理由がなくなったから、もういいの。待つのは終わり。——それよりご飯食べ終わったんだったら、先にお風呂どうぞ」
 コイツがこんな宣言をしたからには、ある日突然ふらっと居なくなる気がしてならない。伏黒甚爾を探る一貫で、彼女の勤め先であるスナックの場所くらいは頭に入っているが、そこを辞められてしまえば、俺は苗字なまえの連絡先ひとつすら知らないのだ。



 洗い物をする後ろ姿に向けて一緒に入ろうとゴネたら、今日の彼女は案外すぐに折れた。すりガラス越しに朝日が差し込む浴室で、素っ裸になって狭い浴槽に背を丸めて座る俺の頭を、苗字なまえの細い指が這う。
 彼女と共に風呂に入って、高専に入学するまでは存在すら知らなかったユニットバスの使い方について、俺はようやく理解が及んだ。これでもう任務先で相部屋となった傑に、床までベタベタだと叱られることもなくなるだろう。
「流すよ」
「ん」
 他人に頭を洗ってもらうのは、気持ちがいいから好きだ。終わってしまうのは名残惜しいが、心地よい温度のシャワーが俺の頭に降り注ぐ。
「俺も洗ってあげよっか」
「自分でするからいい」
 濡れた前髪を掻き上げ後ろを振り向くも、前屈みになったままの彼女は自身の身体ではなく、シャワーヘッドを後ろに隠すような動作をした。代わりに洗身のためのスポンジを投げて寄越されたのだか、結局俺が先に洗い終わってしまい手持ち無沙汰となる。
 だから狭いからと追いやられた浴槽の淵で、俺は苗字なまえの洗う姿をじっと見ていたのだが。服を着ていた時には気付かなかったが、首周りだけでなく二の腕や背中にも紫色の打撲痕が華奢な身体には散らばっており、昨夜の痛々しい出来事を思い起こさせる。彼女は多く語らなかったが、首を絞められる前にも暴行を受けたようだ。
「冷えたでしょ、少しだけお湯はろっか」
 それほど苦々しい表情をしていた覚えはなかったのだが、シャワーの水飛沫が顔に飛んで、俺は眉間に皺を寄せていたことに気がついた。

 シャワーカーテンを縛って、浴槽に付随する蛇口を捻った苗字なまえは、背を向けて俺の足の間におさまった。まだ湯は足首までしか来ていないにもかかわらず、彼女を待つ時間で身体が冷えたからか、そこを起点にじんわりと熱を取り戻すのを感じた。
 彼女の薄い腹に腕を回し、肩口に顔をうずめる。普段のときとは違い髪や身体からは、俺も使わせてもらったシャンプーとボディソープの香りしかしなかった。
「引っ越しの件なんだけどさ」
「うん」
「俺も一緒に住めるようにしてほしい。今すぐ寮を出るのは無理でも、可能な限り帰ってくる。だから絶対勝手に居なくなんないで」
「……でも君は、」
「今は学生だけど一応仕事も収入もある。アイツと違って、金において困らせるようなことはしない。なんなら俺が養うから、仕事も辞めてもいいし——」
 反応がないので顔を上げると、困ったように眉をひそめながらこちらを振り返った苗字なまえと目が合った。そのまま唇の端に口づけを落とすと、目尻に溜まった涙が彼女の頬を伝う。
「なあ、今でも死にたいの」
 俺がそう問うと、苗字なまえはコクンと一度だけ首を縦に振った。そして蛇口から出る水道水の音に掻き消されそうなほど、か細い声で女は言葉を続ける。
「君とも今日が最後のつもりだった」
 そう言い終えると、身体をひねり俺の両頬に手を添えた彼女は、俺の上唇に柔らかな自身のそれを重ねた。いつも俺からばかりで、苗字なまえからキスをされたのは、これが初めてだった。
 短い時間でただ触れることをしただけだったのに、余韻を残したまま離れていこうとする細い身体を、俺は再び引き寄せる。胸が潰れようと、骨が軋もうと構わない。ここで取り逃したら、一生彼女が腕の中へ戻ってこない気がしたからだ。
「俺が終わりにさせない。絶対アイツよりも好きにさせてみせる。先のことはそれから考えて」
 半ば宣言のような呪いの言葉を俺は吐く。それに対し、彼女は結局最後まで返事をしなかった。けれど俺から逃れようとする様子もなかった。
 浴槽がいっぱいになる前に蛇口は閉めたが、湯が水に近い温度になるまで、俺達は抱き合っていた。
#07