彼女はまるで捨て猫のように、路地裏の奥でゴミ袋の山にもたれ掛かり、身を守るように身体を寄せて、私の知らない苦痛や恐怖を耐え忍んでいた。
 速くも遅くもない速度で、私は彼女のそばまで歩み寄る。そして部屋着と思われる服装で、そうしているこの女性に対し「どうされたんですか」「気分が悪いんですか」「怪我をしているなら病院に」など、私の口からはひとりの人間を気遣う台詞が一通り嘘偽りなく出ていた。
 私の言葉のあと、顔をあげた彼女と薄暗闇のなかで目が合う。ゴミの中に居たにも関わらず、顔は綺麗なものだった。しかし衣類に覆われていない二の腕や太ももには、まだらな青痣がいくつも点在しており、外履きと思われるものは周囲に何もなく、投げ出された素足は指先を丸めていた。
「話せます?話せないのなら、このまま病院まで運びますけど」
 正気を失っている様子ではないため、脅しに近い形で私は目の前の女性に語りかける。あくまで親切心として、手っ取り早く事に片をつけたかった。
「……病院は困ります。あの、大丈夫なんで。放っておいてください」
 上目遣いのまま私を見つめる彼女は、ずいぶんと覇気のない声色をしていた。だが、意思はしっかりと感じられる。受けた印象は他人に対する拒絶だ。
「失礼ですけど、こんな格好で何してたんですか」
「あなたには関係ありません」
「外に居るのにどうして靴を履いていないんですか」
「答えたくありません」
「どちらからいらしたんですか」
「言いたくありません」
「もしかして、ここの二階から突き落とされました?」
「!」
 右手で隣接しているマンションを指差すと、彼女は分かりやすく身体を強張らせた。そのとき、紫色をした低級呪霊が彼女が落ちてきたであろう部屋の窓からすり抜けて行った。ああ、きっともうこの人も、これをやった相手も限界だ。
「悪いようにはしない。私に任せてくれないかな」
 左手のひらを差し出すと、彼女は反射的に身を庇うような仕草で、両腕を自身の前へと持ってきた。……なるほど。私もある程度、想定はしていたが。
 時間が経ち、その隙間から再び視線が交わる。敵意がないことを示すため、私は口角を上げてわざとらしく首をかしげる。すると恐るおそるといった様子で、彼女こと苗字なまえは、私のそこに右手を重ねた。



「はい、今週の買い物分。お金は封筒に入っているから、足らないものがあるならそこから出してね」
「いつもありがとう」
 食料や日用品などが詰め込まれた段ボール箱を玄関そばの定位置に置くと、身体を起こす前に学生服を身に纏う私の首へ、なまえは腕を回し全身を使って抱きついてきた。
 まだ靴も脱いでいなかったので、私はよろけながら彼女を受け止める。背中を叩くが、より一層腕の力が強まっただけで、挙げ句の果てには頬擦りまで始める。
「なまえ、」
「なあに」
 加えて甘えるような返事が戻ってきた。どれだけ待とうと止めてくれる様子もないので、私は仕方なく彼女抱いたまま立ち上がり、部屋のなかへと上がり込む。
「お菓子食べてたの?」
「前に傑が買ってきてくれたクッキーだよ」
 甘い匂いが漂っていたので思いつきで口にしただけなのに、なまえはとても嬉しそうに即答した。互いに分かりきっているが、ここにいる彼女に何かを与えるのは私だけである。
 絨毯のうえに腰をおろすと、ローテーブルに手を伸ばしたなまえが、一口サイズのそれを私の口もとまで差し出した。勢いのままぱくっと頬張ると、紅茶が練り込まれているのか、さっぱりとした風味が口いっぱいに広がる。悪くない。私が買い与えたものに違いはないが、実際に食べるのは初めてだった。
「粉がついてる」
 口先でくわえたので、クッキーの残りかすの事だろう。なまえは躊躇いなく、ペロッと私の唇を舐めた。こういう仕草をされると、私は彼女のことを改めて猫のような女だと思う。
 私はあの日より、彼女を保護した。今日に限らず、生きるために必要な物資を週に一回程度の頻度でこの部屋へと直接運び(さすがに異性の私に頼みにくいものもあるのか、渡した金でネット通販も利用しているようだが)何不自由ない生活を送らせているつもりだ。
 なまえは他人への依存心が強く、とてもじゃないがひとりで生きていけるような強い人間ではない。私は弱者生存という社会のあり方を肯定している。だから彼女がここにいる限り、以前と同じような目には私が絶対に遭わせない。
「ねえ傑、今日はセックスする?」
「なまえがしたいなら、してもいいけど」
 私の返事の前からなまえは、高専の象徴であるうずまきのボタンを外しにかかっていたので、最初からその気だったのだろう。恋愛感情がないからか、本能のまま生きる彼女のそういう部分を垣間見ても、私は悪い気はしなかった。
 だから悟に、私の慈善活動の一環として彼女を紹介したのも、今振り返ればペット自慢のような自己顕示欲を満たすための、愚かな行為でしかなかったのだと思う。



 かつてないほど、サングラスの奥で燦々と青色の目を輝かせた親友は私に言った。
「なあ傑、コイツのこと俺に頂戴」
「なまえは物じゃなくて人間だよ。そんな風に言うのはやめな」
「今はオマエの所有物だろ」
「縁あって面倒を見ているだけだよ」
 彼女のなかにも感情や意思がある。私の言い分にも多少の不快感を示したが、初対面の男にいきなりそんなことを口にされた衝撃の方が大きかったようだ。
 嫌悪と警戒心が働き、なまえは悟を威嚇した。そして彼がいる間は私の服の裾を握り、終始背中に張り付くようにして隠れていた。
 悟から伸ばされた右手に対しては、あの日と同じように咄嗟に両腕を顔の前へと持ってきて、彼女は自分の身を守ることを優先した。さすがに気遣いのなっていない親友も何かを感じとったのか、それ以降同じことはしなかった。
 だから今、私が見ているこの光景が信じられない。
「やっと寝るようになった」
 ベッドに腰掛けた悟の膝の上に頭を預け、無防備なかっこうで目を閉じたなまえは、とても気持ちよさそうに眠っていた。悟の指が彼女の髪を梳くたび、安らかな寝息とともに華奢な肩が上下する。
「手かけてやると、ちゃんと懐くんだな。案外可愛いもんだね」
 反転術式を行使していないのか、彼の手の甲には引っ掻き傷の痕のようなものが残っていた。それも昨日今日のものではない。
 レンズの隙間から見えた、彼女を見下す悟の目はとても穏やかなものだった。
「私のだよ」
 それに比べて、私の口から出た言葉はとても醜い感情がこもっていた。独占欲だけではない。これは嫉妬だ。見透かしていたように、悟は鼻で笑う。
「コイツは物じゃねーんだろ」
「ああ、そうだ。けれど彼女には、私しかいない」
「そんなのオマエの思い込みだ」
「紛れもないただの事実だよ」
 穏やかな表情のまま眠るなまえの首に、悟は手を添えた。そして、私を見上げる。
「じゃあ例えそうだったとして、オマエは俺に正攻法でコイツを奪われたって訳だ」
 いつもの安っぽい挑発ではない。彼は本気だ。
 今この瞬間、彼女の生命は全て悟の手中にあった。
手中におさめる