まるでこの世の終わりのような真っ赤な夕焼けを、僕となまえは誰もいない高校のグラウンドの中心で見ていた。
「寒くない?」
「平気です」
 そう言いつつも、斜め下にいる彼女の鼻先は少しだけ赤かった。落ち葉を纏った秋風が、僕らの間を吹き抜ける。繋いだ指先は冷たかったが、手のひらの中心に近づくほどなまえの方が熱を持っており、僕の体温と逆転した。
「じゃあ予定よりちょっと早いけど、校庭に誘い出すから。絶対に手離すなよ」
「はい、わかりました」
 出発前は彼女に外から帳くらい下ろさせてやろうと思っていたのだが、案内役の人間が僕とそう年齢のかわらない男と知って、そんな考えは一気に吹き飛んだ。例え短い時間だとしても、知らない男のそばへなまえを置いてはおけない。
 あらかじめ人払いが済んでいたので、当初の予定通り帳は下ろさず、茶色で人型を模した巨大な呪霊と僕達は対峙する。すでにこの辺りは廃村となっているようだが、土地神信仰の名残りなのか『デイダラボッチが出た』という内容で高専に依頼が入った。
 それなりの巨体が近づくにつれて、なまえの僕の手を握る指先に力がこもる。ここへ足を踏み入れた瞬間から無下限の内側に入れているので、なんの心配もいらないのだが、彼女にとって理屈じゃないのだろう。あるいは僕が信頼されていないのか。
「建物の被害は最小限に」
 僕らを送り出した伊地知の言葉である。アイツも僕を信用していない。
 校舎との距離が十分にとれたため、一点に呪力を込めると、引き寄せた図体が頭上の遥か上の空中で弾けた。道中の方がずっと長く、全く骨のない仕事である。
「もう一件いける?」
「大丈夫です」
 問いかけに応じた少女の言葉の語尾は、少しだけ震えていた。



 分かりきっていたことだが、なんせ移動に時間が掛かる。手際よく祓ったにもかかわらず、結局押さえていた宿に着く頃には二十時を回っており、部屋に案内されるやいなや慌ただしく食事が出された。
「疲れたね」
「はい。……えっと、すみません。私なにもしていないのに」
 次の現場ではなまえに、せめて低級の呪霊を少しくらい祓わせてやろうと思っていたのだが。今まで現場に出さなかった弊害か、少女は予想外に呪霊に怯えた。
 彼女の実家も僕と同じく呪術師の家系であり、なまえも幼い頃から呪いに触れて育った子どもである。知識もさることながら、以前見せてもらった式神も結界術も贔屓目に見ずとも人並み以上だった。例え本人が嫌悪や恐怖を持ち合わせていたとしても、これでは宝の持ち腐れである。
 ……しかしよくよく考えてみれば、それは教育者としてのひとつの僕の視点であって。婚約者である僕にとっては、都合が悪いことは全くもって皆無であり、あえて強要することでもないという考えに行きつく。
「元々僕にきた依頼であって、そういうつもりでオマエを連れてきたんじゃないから。何も気にしなくていい」
「……ありがとうございます」
「それよりお風呂入ろ」
 立ち上がって、すっかり元気をなくしてしまった少女の手を引くと、思いのほか勢いよく引っ張り起こしてしまった。きょとんとした表情のままを、ちゃんと抱き留めたけれども。



 僕が身体を沈めると、高専の部屋の風呂よりもひとまわりほど大きな浴槽からザバっと湯が溢れた。自慢のヒノキ風呂というだけあって確かに香りはするが、温泉地ではないため湯は普通の温水である。吐水口から出た湯をひと掬いしたなまえは、いつもより湯が柔らかい気がすると言っていたが。
「私も失礼します」
 少し遅れて身を清め終わったなまえが、僕の向かいにちゃぽんと浸かった。しかし身体を隠しているもりなのか、彼女はずいぶん窮屈な格好をしている。それならば僕の部屋の風呂場でも、普段はもっと恥ずかしいことをしているので、本当に今更な話である。
「足伸ばしていいよ」
「あ、いえ。お風呂が深くて、座ってしまうと顔まで浸かってしまうんです」
 なまえの申し訳なさそうな声が、浴室に響く。勢いあまって、ひとまわり大きな浴槽に並々湯を張ってしまったが、垂直に腰を下ろした僕でちょうどいいのだから、それは悪いことをしてしまった。まあでも、打開策もすぐに浮かんだ。
 アルキメデスの原理なんて説かずとも、少し手を伸ばしただけで元々軽く薄い身体は水中の浮力をともなって、いとも簡単に僕の腕の中へとおさまってしまう。無抵抗のまま膝のうえに座らせると、ちょうど僕の目の前に少しだけ後れ毛が残ったうなじがやって来た。
「お湯加減はどう」
「ちょうどいいです。ありがとうございます」
 くるりと振り返ったなまえの頬に口づけを落とすと、眉尻を下げくすぐったそうに笑う。ここにきて僕はようやく彼女の笑顔が見れた。
 そのままなまえの身体を僕に凭れ掛からせるようにして、より唇に近い位置にキスをすると、ちゃんと彼女から唇を合わせてくれた。やらしい意味じゃなく純粋に楽しくて、そんな触れ合いを続ける。
 どのくらいの時間そうやって戯れあっていたのだろうか。湯気が落ち着き、冷風が吹いたことで、天井近くの換気用の小窓が開いていることに気がついた。僕達は触っていないので、従業員が閉め忘れたのだろう。
 僕の視線を追うように、なまえも顔を上げる。
「綺麗な三日月ですね」
 言葉にされて気付いたが、窓枠が見事なフレームとなって、細長い三日月がちょうど僕らを照らしていた。例え、か細く弱い光であっても唯一無二の光に違いはない。
 膝のうえになまえを乗せたまま、彼女の腹のあたりに僕は手を回した。そしてほっぺたをくっつけて、再び同じ方向に顔を向ける。
 いつだって彼女と見る月は、世界で一番美しい。
Crescent moon A