「おかえりなさい」
柔和な声と僕を見上げる温かな表情に、彼女と出会うまでにはなかった帰宅時の安心感を覚える。けれども出迎えてくれた瞬間に、緩んだはずの緊張の糸が再び張りつめたのを僕は感じた。
確信的に思ったのだ。なまえから傑のにおいがする、と。
「今日ってどこか出掛けた?」
「?一日家にいたけど」
「……なんか香水のにおいがした気がしたから」
何もつけてないけどなあ、なんて言いながらなまえはニットの袖口に鼻を寄せる。別に傑が香水くさかった訳ではないし、ましてや彼女が特徴的な香りを纏っている訳ではない。口から出た、ただのでまかせだ。
僕が傑の気配を間違えるはずがない。しかし彼女が嘘を言っているとも思えない。
学生時代、なまえは傑が好きだった。それでも彼女の恋人の座におさまったのは僕である。傑がなまえの好意に気付く前に、僕は彼女を自分のものにした。今さらひょっこり帰ってこようと、傑に渡す気など一切ない。
心配そうに僕を見つめる頭を一撫でして、意図的に話題を変えた。
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それから数週間後のとある日。帰宅時に再びなまえから傑のにおいがした。
「どっか行ってたの?」
「どこも行ってないよ?」
そう言って、エプロン姿の彼女は不思議そうに首を傾げた。だが夕飯の支度途中だったためか、体を反転しそのままキッチンの方へと引っ込んで行く。
逃すか、と直感的に身体が動いた。彼女が偽りを口にしていると思えないからこそ、曖昧にしてはならないと思ったのだ。後ろを向いたなまえの細い手首を掴んで、僕はそれを引き留める。
「オマエから傑のにおいがする。今日だけじゃない、少し前にも一度あった。徹底的に調べるから、隠してることがあるならこの場で正直に吐け」
こちらを振り返った彼女の表情は、もともと大きな目をさらに見開き、恐怖に怯えていた。とてもじゃないが、愛しい恋人にさせてよいものではない。しかし僕は手を緩めてやる気にはなれなかった。
「……悟は、私の術式知ってるよね」
「水面に自分の記憶を映せるんだろ。あと条件を満たせば他者の記憶も」
「うん、そうだね。でもね、誰にも言ってなかったんだけど、みんなが知っているより少し再現度が高くなっちゃったの。——来て」
僕に手首を握られたままなまえはガスコンロの火だけを止めて、慣れ親しんだ洗面所へと僕を誘導した。
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「見てて」
僕の手を離れ、洗面台に水を張ったなまえは髪を耳にかけたあと、そこを覗き込んだ。すると天井を反射していただけの水面に彩りが与えられ、映像として揺れ動く。
学生時代から何度も見ているが、記憶という点で不確定さをはらむ術式であるにもかかわらず、彼女の力には毎回驚かされる。所々ぼやけているが大きな木々と既視感のある古い建物が並び、呪術高専内であることがうかがえた。
「ったく、オマエはいつまでメソメソ泣いてんだよ」
「だってぇ……」
慣れ親しんだ風景に、学生服を着た僕の背中が映った。僕となまえの声だが、喋っているのは今現在ではなく水面の中の過去の僕らである。
「追い詰めたのは私と悟だ。それに拘束も甘かった。なまえが気にする事はなにもないよ」
視界が持ち上がり、彼女に宥める言葉をかけた後とは思えない、表情を固くしたままの男が現れる。高専に居た頃の傑だ。
会話や景色に覚えがある。確か、僕となまえと傑の三人で行った任務後の光景だ。呪詛師をひっ捕えたところまでは手筈どおりだったが、彼女に記憶を読まれまいとそいつが目の前で自決した。後味が悪い仕事であり、この時のなまえが泣いている理由だ。
「あの呪詛師のせいで、関係のない一般人が七人も亡くなってるって——。ちゃんと大義を持ってたはずなのに、私っ、」
「……人の命の重さを知ってるなまえは優しいね」
彼女の視界には入っていないが、このとき傑はなまえの頭を撫でた。
「先行くぞー」
二人の心情を理解は出来るが、同調には至らない。あの時もそうだった。それを見ていられなくて、足早に歩き始めた僕の背中が小さくなっていく。
「この頃の傑とは、同じ方向むいてたと思うんだけどな」
それを口にしたのは、今のなまえだった。顔を覗き込むと彼女の潤んだ瞳から雫が溢れ、頬を伝って記憶を映し出す洗面台と落ちた。すると室内の温度が一気に下がり、外のにおいに紛れるようにして、この場に存在しない傑のにおいがほのかに香った。
「呪いが強くなっちゃったのか、その時のことを思い出しながら涙を流すと、声だけじゃなくて当時の空気感まで再現できるようになっちゃったの。……お願い悟。これ以上傑に人を殺させないで——!」
そう告げてなまえは僕に縋りつく。2017年12月24日の日没まで、残り24時間を切っていた。