都内で急発生した一級相当多数の呪霊を祓った帰り道。行きと同じく補助監督の運転する車、その後部座席。目を伏せたまま、隣で浅い呼吸を繰り返す女に、俺は溜め息を吐きたくなった。
 今朝共有スペースで待ち合わせていたとき、なまえはすでにマスクを着用していた。しかし本人は至って普通で「熱もないし咳もしていないけど、ほら流行っているから」と言っていた。
 数日前に教室で咳き込んでいた硝子は、昨日の晩ついにダウンしたらしい。いくら反転術式を極めようと、病原体までは正のエネルギーに変換出来なかったようである。
「大丈夫だと思うけど、予防の意味も込めて」と付け加えた時点で、きっと彼女も本調子ではなかったのだろう。女子寮で蔓延するウイルスは、同じく任務に出たなまえにも、すでに魔の手を伸ばしていたみたいだ。

 青信号に変わって、クルマが発進する。それと同時に、換気のために少しだけ開けた窓から、冷たい風が一気に舞い込んだ。凍えるようなそれに、俺は携帯電話を触っていた手を一緒にポケットへ突っ込み、肩を震わせた。
 暖房がきいた普段の狭い車内なら、すでに防寒具を取っ払っても良いはずなのだが。そう思い、嫌味を込めて元凶に目をやると、巻いたままのマフラーに深く首を埋めたまま動かない。ここまで弱った姿は稀なので、写メをして傑に見せてやりたい気持ちもあったが、せっかく暖まりだした右手が、ポケットから出たくないと言ったのでやめた。
 手持ち無沙汰になり、色の少ない山々を眺めていると二の腕になまえが寄りかかってきた。補助監督がいくら安全運転を心掛けてくれようが、山道特有のカーブによる遠心力まで無しには出来ない。
 身体の力が抜け切った女は、自分の意思ではどうにもならないらしい。直線道路に戻っても、彼女は俺に凭れたままである。こんな状態じゃ、そのうち反対側へも倒れて頭を打ち付けてしまうだろう。
 言っておくが親切心だ。仕方なしにポケットから腕を出し、俺はなまえの肩へと腕を回した。無限?こんなところで張るわけねーだろ。
 そのままさらに近くなった顔を覗き込む。自分とは違う色の長いまつげは、素のものではなくてマスカラ?を塗ってあるようだ。粧しこんでないで、その分寝て健康を保てと、すでに胸元に寄りかかった頭に説教してやりたくなった。
「あと十分くらいで着きますからね」
 そう言葉にした補助監督と、バックミラー越しに目が合う。
「ん、わかった」
 後ろばっか見てて、事故すんじゃねーぞと付け足したかったが、さすがに口に出さなかった。



「はあ?ワックスがけ?何だそりゃ」
 座っていてもあんな状態なのだから、寮の真ん前まで降ろしてもらったところで、なまえがスタスタと自分の部屋まで戻れる訳がなかった。
 女子寮が男子禁制を謳っていようが、わりと今の状態は緊急事態に近い。それに寝込んでいる硝子を呼び出すほど鬼でもない。ので、彼女をおぶったまま俺は禁忌を破ろうとしたのだが、想定していたものと全然違う立ち入り禁止をくらった。
 ワックスがけも知らないの?とパンピーの寮母に結構ガチでキレられた。でもおばちゃんは俺となまえの状況をすぐに察して、どうせ流行りのやつでしょと、寮に常備してあった解熱剤もくれたし、あとでお粥も作ってくれると言っていた。
 だからワックスが乾くまでの残り一時間、なまえは俺の部屋で預かる事にした。意識が朦朧としているようだが、一応本人に同意も取った。
 余談だが、移動中「はあはあ」と俺の首筋に掛かる息は、マスク越しでも生温かくて、妙な気分になった。

 自室の扉を開け、なるべく衝撃にならないようにと、腰掛ける体勢で彼女を寝具の上に降ろしてやる。
「ベッド使ってもいいから、寝てろ」
 俺なりの、今できる最大限の気遣いである。朝起きたままの、洞窟のような羽布団と毛布の空洞に、病人となった彼女を押し込んでやる。
 だがなまえは、どこにそんな力が残っていたのか。俺に再びしがみつき、首を横に振った。
「任務後で汚いからいい。それに風邪うつすかもしんない。床でいい」
「はあ?これ以上悪化させてどうすんだよ」
「やだ、やだ」
 ぐりぐりと押し付けてくる頭が痛い。しかしそれよりも、学ラン越しの背中に当たったり離れたりを繰り返す、胸の感触の方に意識が向く。おぶってた時も思っていたが、見た目よりもあるのかもしれない。
 思考がどんどん逸れていくのを実感しつつ、ひとり寝かせて余韻を残されるよりも、俺も今すぐ流行病に冒されて一緒に布団で寝てしまうのが一番良い気がするとさえ思えてきた。大義名分を得て共にベッドへと入るのだ。
 今みたいに後ろから抱きつかれるのも悪くないが、前から抱きしめたい。普通に抱きたい。ヤりたい。
 あーなまえ、俺と付き合ってくんねーかな。

「わがまま言うな」
「やあ!」
 それでも理性が勝った。名残惜しくもなまえを引っぺがすべく、俺は立ち上がった。
 熱で潤んだ瞳も縋るように伸ばされた腕も、なんというか加護欲より性欲がそそられたが、賢者の気持ちを思い出し、彼女を再びベッドに押しやる。それでもまだワーワー言いながら、バタバタと手足を動かして抵抗するものだから、布団の上からのしかかってやった。
「遠慮すんなよ」
「ちがう〜!」

「悟、入口ちゃんと閉まってなかったよ」
「……マジ?」
 なまえに乗り上げたまま、声の方に目をやると、スウェット姿の傑が憐れむような目で俺を見ていた。
「あと、これからも学校生活は続くんだから、そういう行為をするなら、きちんと同意の上で——」
 思い遣りだろ。ふっざけんなよ。
真風邪来い風邪