星空の下、吐いた白い息は瞬く間に夜へと溶けていく。空中を階段のように駆け上がり、僕は彼女の寮室である二階の窓をコンコンとノックした。
 すると少し時間を置いて窓が解錠される。入り口から来ると思い、向こうで待っていたのかもしれない。大人しく寝ていれば良いものの、なまえはそういうことをしてしまう女の子だ。
 そっと開けられた窓枠に足を掛け、僕はそこで靴を脱いだ。
「ごめんね、夜遅くに」
「こちらこそ、お疲れのところをご足労いただき、すみません」
 そのまま窓の真下に位置するベッドへと足を下ろす。膝立ちのまま僕を見上げるなまえは、調子を尋ねるまでもなく青白い顔をしていた。
「まだ体調悪そうだね。オマエと少し話したくて来ただけだから横になりな」
 遠慮の言葉とともに少女は首を横に振る。だが諭すように頭を撫でると、渋々といった様子で頷き布団へ入った。自分の部屋に居るとき専用なのか、僕が与えたものではないモコモコとした部屋着に身を包んだ彼女を見ると、やはり年相応の幼さを実感する。
 華奢な肩まで毛布を引き上げてやると、なまえは申し訳なさそうに礼を言った。そんな彼女の表情を見ながら、ベッドの淵に腰掛けた僕は続ける。
「医者に診せないの?」
 曖昧な肯定。
「風邪じゃないの?」
 これも曖昧な肯定。
「そんなに僕のこと信用できない?」
「違うんです……!」
 これは完全な否定。だったら、と吐き出してしまいそうになった台詞を僕は喉の奥へと押し込む。責め立てたい訳ではないのだ。
「ちゃんと聞くから。なまえの言葉で僕に話して」
 僕は蒼白としている彼女の頬に触れる。不思議なもので、これだけ真っ青な顔をしていても、いつも僕の手の方が冷たい。
 するとなまえが口を開くより先に、張りつめて溢れ出した涙が、彼女の目尻から僕の指へと伝った。そして雫とともにぽつり、ぽつりと言葉が紡がれる。
「生理が、いつもより遅れてて——、」
 そこに重なった続く微熱とおさまらない吐き気。少女とはいえ、なまえも少なからず知識を持っており、頭に過ったそうだ。——妊娠したかもしれない、と。
 しかし内容が内容だけに誰にも話せず、倦怠感もあって身体も思うように動かず。彼女にとって、どうしようもなく辛い日々であったことは想像に難くない。
「私は、さとるさんとしか……、ぐすっ、そういう事を、していないです。それに、さとるさんも……ちゃんと、してくれているのに……、っ」
「疑うわけないよ」
 嗚咽で途切れ途切れになりながらも、なまえはずっと一生懸命で、僕から目だけは逸さなかった。
 そんな彼女を少しでも安心させてやりたくて、僕はなまえの震える上唇に自身のものを重ねる。そのまま喰むようにしながら、強張った身体に入った力を少しでも緩めるよう、頭を撫でて丁寧に涙を拭い、ゆっくりと抱き寄せたあと背中をさすった。
 すすり泣く声が耳元で聴こえる。それすら愛おしく思えるのだから、改めてこの少女が僕にとって唯一無二の存在であることを実感する。
 けれど名残惜しくも首の後ろへ回された手を解いて、僕は起き上がった。爪先を伸ばせば届く距離にいるのだから、そんな顔をしないでほしい。どうして、と不安気にこちらを見つめる彼女には酷だと思いながらも、僕は口を開いた。
「僕はこれでもオマエのことを、他の誰よりも大事にしたいって思ってるよ。けど僕は、今のオマエに起こっている『もしも』が不幸だとは、とても考えられない。そのうえで、なまえは僕にどうしてほしい?」
 潤んだ瞳が僕を見上げる。少女に寄り添ってやりたい気持ちはあれど、人間それぞれ個性や思想があり、完全な同調が出来ないことを僕はよく知っている。
 数秒の沈黙のあと、少女のきつく結ばれた唇が開いた。
「……私も、さとるさんと……ぐすっ、いずれは、ってことは、理解しています。でも今は、不安でこわいっ……!」
 なまえは幼い子のように、顔を真っ赤にしてわんわんと泣いた。宥めてあげたくてもう一度身体を屈めると、少女の細い指が僕の上着を引っ張ったので、そのまま腕の中へと閉じ込める。押しつぶしてしまわないよう気をつけながら、大丈夫と言い聞かせ強く抱きしめた。

 僕はなまえと少しでも長い時間一緒にいたくて、彼女を呪術高専へ呼んだ。けれどわざわざ家から連れ出したとはいえ、なまえが学生のうちから意図して子どもを作ろうだなんて考えたりはしなかった。
 それでも予想外の出来事だとしても、全ては僕が背負うべき責任である。だけど、なまえがそう思わないことを僕は知っている。この子は本当に優しい子だ。
 だからこそ、この先なまえがどんな選択をしようと、彼女の未来は僕が保証する。少女の言う『いずれ』を願い続ける限り永遠にずっと。
 胸元に埋めた頭を撫でながら、僕はそう心に誓った。
Half moon B