兎にも角にも、大ごとにされたくないというのが、僕となまえの共通認識であった。そのため、まずは確証がないことも含めて市販の検査薬でハッキリさせてから、改めて信頼のおける医者を頼ろうと僕は提案した。
「今の段階じゃ、僕の六眼で見ても分からないし」
「見てわかるものなんですか」
 泣き腫らして充血した目が丸々と開く。今までも僕は、この少女を何度か泣かせてしまった事はあるが、形容するならばしくしくといった程度で。ここまで大泣きした姿を見るのは、実のところ初めてだった。
「胎児がある程度ヒトとして成長したらね。その頃にはお腹も大きくなってるから、誰が見てもってレベルだよ。まあ余程じゃない限り、母胎の一部としての認識しか出来ないかな」
「そうなんですね」
 なまえの目線が、一瞬自身の下腹部へと下がる。安心させるように頭を撫でたあと、僕はベッドから離れた。
「それじゃあ今から買いに行ってくるね。早い方がいいでしょ」
「こんな夜遅くに……その、さとるさんもお疲れでしょうし……」
「まあ二十四時間営業のドラッグストアもあるし、また明日から出張続きでしばらく高専に居ないから。出来れば今夜のうちに——」
「嫌っ、行かないで……っ」
 ようやく泣き止んだと思ったはずが、再び少女の瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ち、不覚にも僕はギョッと驚いてしまった。なまえはすでに布団から起き上がって僕の方に腕を伸ばしており、今にもしがみついて引き留められそうな勢いである。
 そんな彼女を丁重にベッドへ押し戻したのだが、その際に上着を掴まれたため雑に振り払うことも出来ず。僕は半端に屈んだまま身動きがとれない状態となってしまった。
「なまえ」
 諭すように名前を呼んでも、少女はメソメソと泣きながら首を横に振るだけで。僕の顔色をうかがう時のオドオドとした様子が嘘のように、聞き分けなく駄々をこねる。
「ねえ、なにが嫌なの」
 少し身動いだだけでも、衣服をギュッと握るなまえの指に力がこもる。僕を行かせまいとしているのは分かったので、もう逆に抱きしめてやった。すると安心したのか、少しだけ力が緩む。
「……ごめんなさい。明日になったら、自分で、行けます……ひくっ。ちゃんと、ぐすっ、自分で出来ます……。だからっ、今夜だけは——」
「わかったわかった。行かないから、手離して」
 ここでようやく思い至った。なまえはきちんと自分の言葉で、僕に伝えていたはずだ。『今は不安でこわい』と。
 それでも、自己犠牲も厭わず他者に救いの手を差し伸べてしまう優しいこの子が、産まない選択を出来やしないことは分かりきっている。だから他の全てを捩じ伏せてでも、彼女の意思を尊重すると決めたばかりなのに、僕が先走ってどうする。
 一呼吸置いて、朝まで居てもいいかと問うと少女は一度だけ頷き、おぼつかない様子で細い指が離れた。僕との隙間から顔を覗かせた幼い婚約者は、泣きべそをかきながらも少しだけ穏やかな表情に戻っていた。



 僕はなまえとの漠然とした将来を、幾度か想像したことがある。しかし、清潔で柔らかそうな白い布に包まれた小さな命に微笑みかける彼女の姿はいくらでも頭に浮かぶのに、そこにいる自分の姿だけはどうしても思い描くことが出来なかった。
 けれど、あのとき少女に伝えた自身の言葉に嘘偽りはない。不幸どころか、本当に僕との子どもをなまえが授かったのならば、それはとても幸福なことだと思った。

 額に口づけを落として彼女をベッドに寝かせたあと、上着を脱ぎ部屋の照明を落としてて、僕のために空けてくれたであろう隙間に潜り込む。するとすぐ、僕の二の腕に小さな身体が抱きついた。ふにっと柔らかな感触を衣服越しに感じる。
「さとるさん、大好きです」
 目線を下げると、そこにはなまえの頬っぺたがギュッと押しつけられていた。薄暗闇のなかでさらに顔半分は毛布に隠れているため、はっきりと表情は見えなかったが、後ろめたさから呟かれた言葉でない事はなんとなくわかった。
「僕もだよ」
 そのように返答すると、緩やかに彼女の身体から力が抜けていくのを感じた。
 僕がなまえの安心材料のひとつになれているのならば幸いだ。
Half moon C