「——さとるさん、起きてください。お電話鳴ってます」
 幼い婚約者から揺さぶり起こされ、途端に今まで聞こえていなかったはずの着信音が、ガンガンと頭に鳴り響く。気付きやすいと設定したベルの音も相まって、まるで耳障りな目覚まし時計だ。
 一刻も早く静止すべく、彼女がいそいそと持ってきた僕の上着からスマホを取り出し耳にあてると、補助監督より交通手段が変わったので三十分遅く迎えに行くという、たいして嬉しくもない仕事の連絡だった。緊急性がないのなら、それこそ現代人らしくメッセージアプリで済ませてほしい。
 通話の最中、少し離れたところからこちらを気にするなまえは僕より先に起きていたのか、昨日と同じ部屋着を羽織ってはいるが中はすでに高専の制服に着替えていた。目もとも泣き腫らし顔色は相変わらず悪いものの、表情は心なしか少しばかり明るさを取り戻している。
 通話が終わるのを見計らって、ちょこちょことこちらへ駆け寄ってきた。ベッドへ腰掛けたままの僕を、膝をついて下から見上げるなまえの頭に手をやる。
「おはよ、登校できそうなの?」
「あの、さとるさんに謝りたくて」
「ん?」
 口調も表情もとぼけたつもりだが、今朝彼女を一目見たときからなんとなく脳内では予感していた。なまえに触れていた手のひらが、音もなく自分の膝へ落ちる。
「ちゃんと、生理が来たので……。私の早とちりでした。大変ご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ありません」
「……そっか」
「さとるさんの貴重なお時間を無駄にしました」
 数歩下がった位置で深々と謝罪する少女の姿があまりにもよそよそしく、告げられた事実よりもその態度に僕は落胆した。彼女のなかではやはり自分だけの問題だったのだろうか。昨夜の出来事がまるで夢まぼろしだったかのように、なまえの認識として僕が心の通じ合えない肩書きだけの婚約者なのだと思わずにはいられない。
 互いに無言のまま、時計の針だけが一定間隔で秒針を刻んでいた。重苦しい空気のなか、寝起きの身体から体温がどんどんと外気に奪われていくのを実感する。
「残念、でしたか」
 淀んだ沈黙のなか、透き通るような高い声が空間に響いた。二人しかいないこの場所で僕でないなら、もちろんなまえである。
 自然と落ちた視線をあげると、いつのまにか幼い婚約者は再び僕の手の届く位置まで戻ってきていた。習性のように指先を伸ばし、彼女の手をとる。華奢な指先はいつだって心細い。だから毎回有無を言わせず、そのまま腕のなかに閉じ込めてしまう。
 けれど今日はそうする前に、少女は屈み大人の僕に目線を合わせた。緊張と不安が合わさった今のなまえの表情は、僕と鏡写しのようなものだと思う。
 真っ黒な瞳に吸い込まれるその前に——。いつもの調子を装い、彼女の問いに答えるべく僕は口を開いた。
「半々かな。今すぐを望んでた訳じゃなかったし」
 今となっては、なるようになったとしか思えないので、限りなく嘘に近い本心である。僕のような人間は、なにかを願うより現実を変えていく方が性に合っている。
 すると返答に対し、なまえは外側から繋がれた僕の手を握り返した。
「……でも私は、あのときのさとるさんの言葉があったから、大丈夫だって思えました。これからもずっとお慕いしております」
 昨晩の『大好き』が今の精一杯の彼女自身の言葉だったと理解したとき、間違いなく僕は赤面していた。
Half moon D