五条家のお屋敷の中庭には、季節によって彩りをもたらす木々のなかで、一本だけ桜の木が存在している。もう樹齢五十年を超える老木らしく、狂い咲きとまでは言わないものの年々花の開花が早くなっており、私が幼い頃から早咲きの桜としてこの木はみんなに認識されていた。
 しかし唯一の桜とはいえ広い庭の端の方に植樹されているため、そこで家の者が花見をする訳でもなく、屋敷の春の訪れの象徴になっている訳でもなく。誰が何のために一本だけ植えたのかもわからぬまま、罪のないこの木はただただ決められた場所にさみしく佇んでいた。

 その日は桜が咲いているのに小雪が舞う、不思議な夜だった。
 暦のうえでは春を迎えているのに寒さでなかなか寝付けずにいた私は、女中さんに湯たんぽを入れてもらうため自分が過ごす離れの部屋を抜け出した。
 室内から外廊下へ出た途端、私の呼吸が白い吐息に変わる。月光に照らされながら、雪もちらついていた。一枚上に羽織ってきたが、あまりの空気の冷たさに余計に目が覚めてしまった気がする。
 それにどうにも明るい夜だと思っていたら、今宵は満月のようだ。悪さを働いている訳ではないものの、いつも離れから母屋に向かうときは屋敷の中を通らず外から回るので、誰にも見つからなければ良いなと思った。
 なるべく足音を立てないよう、凍えながらでも足早に廊下を進んでいく。すると給仕室を目指す途中、月灯りの下で中庭の桜が満開になっていることに私は気がついた。光の加減なのか、青白くそこだけライトアップされているように見えて、あまりにも幻想的な風景に思わず足を止める。
 思えば実家に出戻る母に手を引かれ、私が五条家の人間になった日も、この桜の木は満開の花を咲かせていた。その母も今では外で違う男を作り、数年前に私を置いて再び家を出て行った。私は父にも母にも捨てられたのだ。
 桜吹雪と粉雪が同時に舞う。雪粒のひとつが私の頬に付き、雫となって流れ落ちた。しかしその感覚も、手足がかじかむ寒さも次第に消え失せ、私はまるで何かに憑かれたかのように一点を見ていた。
 もう今では哀しくも寂しくも、何ともない。それに良くも悪くも、私はこの家の血を濃く受け継いでいた。そのため軽い軟禁状態ということ以外、最低限の生活は保障されている。きっと人並みには幸福である。
 それなのに、記憶のなかの父と母と営む家族への羨望を捨てきれないのは何故だろう。二人とも私を置いて去った人間なのに、だ。

「こんなところで突っ立ってると風邪引くよ」
「!悟様」
 桜が見せた夢うつつから、一気に現実へと引き戻される。肩に置かれた手の方を振り向くと、本来ならば私ごときが口をきく事すら許されない人物がそこに立っていた。
 お忙しくされているので屋敷内では月に一度お見かけする程度なのだが、今日がその日だったようである。朝からいつも以上に女中さん達が慌ただしくしていた理由が、今になって分かった。
「綺麗だね」
 畏れ多くも、私の雪で濡れた頬の水滴を拭いながら彼は言う。その体温で、私は驚くほど自分の身体が冷えていることに気がついた。予想するよりかなり長い時間立ち尽くしていたのだろう。
 けれど悟様に余計な心配をかけたくなくて、彼に勘づかれないよう身震いをなるべく抑え、私は不快にならない程度の笑みを浮かべた。
「ええ、見事な月夜と雪見桜がとても美しくて、思わず見惚れてしまいました」
「……ああ、そっちの方ね。珍しいとは思ったけど。……なまえはどこかへ向かう途中だったの」
「給仕室へ。今夜は冷えるので、湯たんぽを貰いに」
「は?オマエの部屋にも——」
 悟様を纏う空気が一瞬にして厳かなもとへと変わる。しかし耐えきれず怯えた私を見兼ねたのか、彼は言葉を飲み込んだ。
「まあいいや。あたたかくしてあるから今夜は僕の部屋においで」
 深々と雪が降り続くなかでも、月と桜の美しさは変わらない。大きな身体に肩を抱かれ、されるがまま私は彼の部屋を訪ねた。



 羽織を腕から抜き布団へ寝かせられると、悟様はそのうえから私に覆いかぶさった。熱い舌で唇を割り開かれると、以前彼に教えられたように自分の舌を絡める。物足りなかったのかすぐに主導権が移ったものの、しばらくして口が離れると「いい子」と頭を撫でられた。
「あれ?下着は?」
「眠るところだったので今は肌着だけです」
「そんな格好で出歩いちゃダメだよ」
「んっ、ごめんなさい」
 すでに肌蹴た寝巻きの浴衣の合わせから手を入れた悟様は、私の豊かとは言い難い胸の形を確かめるように触る。それほどの快楽は得られないものの、経験からはしたなくもこのあとの流れを連想してしまったのか、お腹の奥がキュッと疼いた。
「まだ寒い?温度上げてこようか?」
「?いえ、ちょうどいいですよ」
「なまえの肌がいつもより冷たい。夜桜見ながら何考えてたの」
「えっと、それは……ひゃっ、」
 内太ももを這っていた大きな手が、下着を掻きわけて浅いところを行き来する。待ち侘びていた刺激に、奥の方からドロっと熱いものが溢れ出るのを自分でも感じた。
「ゃっ、あっ、あ」
「すご」
 彼の指の動きに合わせるようにして、辛抱しきれなかった腰が揺れる。そのうえいやらしい水音が部屋中に響き、入ってきたばかりの彼の三本目の指までキュッと締めつけてしまった。
 羞恥心からうっすら目を開けて悟様の表情を窺うと、普段は白い頬が上気し、部屋へ来たときよりも機嫌は良さそうだった。目が合うと、うわ言のように喘ぎ続ける口を塞がれる。
「そんなに慣らしてないけど、もう大丈夫だよね」
 唇が離れ私が頷くと、悟様は半端に着ている衣服を脱ぎ去り再び覆いかぶさった。そして太ももを持ち上げられ、言葉のわりには丁寧に彼は私の膣内を押し上げていく。
 もっと邪険に扱ってもらった方が気が楽だと思うくらい、悟様は私に優しかった。今度父や母みたいに突然捨てられたら、私はもう耐えられないだろう。不相応だと確信しているからこそ、自分のなかの膨れ上がる気持ちが怖い。
「っ、大丈夫?」
「はあ、はあ……、はいっ、大丈夫……、ああ、あん、あっ……!」
 いつの間にか繋がれていた彼の指を、私はギュッと握った。



「ねえねえ、結局あのとき何考えてたの」
 明らかに私の部屋よりも上等な寝具に身を沈ませていると、後処理を終えた悟様が戻ってきた。事を終えたのだから自分の部屋に帰らなければならないと理解しつつも、身体が言う事を聞いてくれそうにないため、また彼の好意に甘えている。
「取るに足らない事ですよ。居なくなった両親と、家族として暮らす自分の夢を見ていました」
 一度答えそびれた質問に対し、私は正直に返答する。もうどうにもならないからこそ、夢を見たのだろう。口にしたところで、やはり今は何の感情も湧いてこなかった。
 しかし同じ布団のうえで肘枕をした悟様を見上げると、意外にも少しだけ驚いたような顔をしていた。
「今でも恋しいんだ」
「そう言う訳ではないんですけど、ないものねだりと言いますか。多分必要以上に執着しているのだと思います」
「じゃあさ、あともう少ししたら僕と家族になれるんだけど、どう?」
「へ?」
 理解が追いつかず間抜けな返事をする私を置いて、悟様は続ける。
「こういうコトするのも、僕はなまえとだけだよ。だから面倒だけど、ちゃんとしておこうと思って。もう準備はかなり進んでるから、今さらオマエに拒否権とかないんだけどね。……ひと目みた日からずっと好きだったよ」
 昔よりも言葉や仕草は柔らかくなったものの、強引なところも本質としての他人への優しさも変わらない。母が去ったあと養子に出される寸前の私を、ありもしない術式を授けて強引に離れに移したのも彼だった。
 ただでさえ疎まれ者の自分では不相応だとか姿勢を正すのも忘れ、私は彼に縋る。
「私もずっと……、あなた様をお慕い申しておりました」
 優しい笑みを浮かべた悟様は、ポロポロと涙をこぼす私を胸元に引き寄せた。そして逞しい腕が背中にまわり私も同じようにすると、さらに自分の内側へと私を仕舞い込む。孤独だと思い込んでいた私は、ずっと彼によって守られていた。
 そして桜と雪が舞い散る不思議な月夜に、私は彼と結ばれた。
雪月花