私立の宗教系学校とされている呪術高専内の教室も一般的な高等学校のものと変わりなく、三十人ほどの生徒が一堂に学ぶ場を想定した造りとなっている。しかし稀有な能力を有する特別な生徒しか入学が許されないこの学校では、全校生徒を集めたところでその人数にはとても満たない。
 今年新たに門をくぐったのは、男子生徒二名と女子生徒二名。つまり現在の一年生の教室も、教卓ひとつに対して四つの机が等間隔で横に並び、前列の一列のみで一クラスが完結していた。
 だから授業に集中していない生徒は一目瞭然であるし、担任である夜蛾もそれぞれの表情を注意深く観察しながら話を続けていたのだが——。
「今日の割り振りだが、悟と硝子は横浜。傑となまえは——、おいなまえ、聞いているのか!」
 教師と他三人の生徒の視線が、うつむき加減となったひとりの少女へと一斉に集まる。
 だが担任教師が名指しで怒号を飛ばしたにもかかわらず、女子生徒は机に肘をつき、こっくりこっくりと頭を揺らし続けていた。その様子に、夜蛾の声色も心配するものへと変化する。
「……大丈夫か?」
 少女こと苗字なまえは四人の中では比較的真面目な生徒で、良い意味で目立たない優良児であった。そのため日頃の行いがものを言ったのだろう。
 となりの席の家入が名前を呼びながら肩を叩いても、彼女は重い瞬きを繰り返すのみで、うっすら口を開くものの続く言葉が出ない。
「アレか、昨日五条に寝かせてもらえなかったのか」
「はあ?俺より先に寝て、あとから起きてきたわ」
「お前らなあ、学生らしく健全な付き合いをせんか!馬鹿者!……はあ」
 再び怒号が飛んだものの、悪気も恥じらいもない男子生徒に対し、担任教師は諦めたような溜め息を吐く。
 するとようやくここでなまえの顔が持ち上がった。
「……すみません、急に異様な眠気がきて」
「心なしか顔色も悪いし、今日は休んでもいいぞ。二級が一体の報告だ。補助監督も同行はするが、傑ひとりでいけるか?」
「はい、大丈夫です」
 背筋を正した夏油は目線をなまえから夜蛾に戻し、首を縦に振った。しかし目蓋が上がりきらないままのなまえが首を横に振る。
「いえ、眠気だけなので行けます。道中に車で寝かせてもらって、無理そうだったらそのまま車内で休ませてもらうので行かせてください。絶対に傑くんの邪魔はしません」
 生真面目な性格がゆえ彼女がなかなか頑固な性格をしていることは、この場にいる皆がみな知っていた。決して無茶はしないと付け足させて、担任教師である夜蛾もそれならと許可する。
「反転術式かけてあげるよ」
「ありがと、硝子」
「無理すんなよ」
 五条がなまえの頭をぽんぽんと撫でると、彼女は頬を綻ばせた。



 日が落ちてから間もなくして、学生寮の入口正面に黒塗りのセダンが停車する。広い敷地内ではあるが、あまり車の運転に適したつくりではないため、ここまでやって来るのは生徒に余程の出来事があった時だけだ。
 今回はその緊急事態に該当したのだろう。慌ただしい様子で建物から出てきた五条、家入、夜蛾は一目散にそこへ駆け寄った。
「傑!なまえは!?」
 前付けされた車を三人が取り囲む。すると目を閉じて力なくぐったりとした様子のなまえが、夏油に抱きかかえられたまま後部座席から降りてきた。意識はないものの、特に外傷は見当たらない。けれどここまでされても彼女が目を覚さないという事実が、彼らにとって深刻であった。
「さっきまでは、うつらうつらしながらも会話は成り立っていた。本人が言うには、道中だけでなく私が任務中も車の中で寝てたようだけど、この眠気は異常だよ」
「硝子!反転術式!」
 夜風が吹くなか、五条が叫ぶよりも前に家入はすでになまえに向けて術を施し始めていた。しかし、もともと穏やか表情で眠りについていた少女は、恋人ではない男の腕のなかで同じようにただただ眠り続けるだけである。
 五条は特別な眼で、より鮮明に彼女を視るためサングラスを外した。それから掻っ攫う勢いでなまえに腕を伸ばしかけたのだが、夏油が一歩後ろへと下がりそれを避ける。
「おい!」
 五条は非難の声を上げる。だが、彼にはそうすべきだと判断する理由があった。自身を睨みつける親友に真剣な眼差しを向け、口を開く。
「それよりも悟。離れた場所にいたのに、なまえの体内から君の呪力の気配が消えないんだ。なあ君、彼女に……もしくは彼女と何をした?」



「実はね、少し前から薬を飲み始めたの」
 ベッドの上でお互いほぼ裸に近い状態になったとき、なまえは恥ずかしそうにしながら五条へ告白した。
 彼女は、覆いかぶさったまま大きく目を見開いた彼の頬に指先を触れ、首筋、鎖骨と順になぞり左胸に手を添える。優等生で通っている自分が性に貪欲であると知られるのは怖かったし、目的が違うので意図して告げなくてもよいと知りつつも、彼女には少しでも恋人に喜んでもらいたいという気持ちがあった。
 まだ言葉の意味を咀嚼しきれていない五条を置いて、なまえは落ち着きを取り戻した口調で続ける。
「前から生理が重くて、任務で遠出や外泊もあるからって相談したら勧められて。一時期は内服の種類を変えたりもしたんだけど、今はもう状態も安定してる。悟くんの気持ちもあるだろうけど、今日からつけなくてもいいよ」
 なまえの手のひら全体に、五条の心臓の鼓動が伝わる。彼のギラギラとした視線を見れば、返答を聞かずとも彼女は自分の選択が間違っていなかったのだと確信出来た。
 残りの衣服を取っ払い、いつもより一工程少ない分、五条は念入りに彼女へとキスを落とした。それに対しなまえは「もういいよ」と困ったように笑って、隔たりのないそのままを受け入れた。

 五条が夏油の腕の中にいるなまえの下腹部に手を伸ばしたのを見て、夜蛾は頭を抱え、家入は溜息を吐いた。しかし夏油だけは眉を下げ、穏やかな表情に戻っていた。
「悟のなんだろ。誰もとらないよ。それとも彼女のことが信じられないのかい」
「……そう言う訳じゃねーけど」
 一歩前へ出た親友から、自身の大切な恋人を五条は受け取る。腕の重みとともにこの穏やかな寝顔を見ていると、ここにいるのだと彼が安心してしまうのは偽りようのない事実であった。
「今すぐ全部掻き出すか、生理になって全部出ていったらなまえも起きるんじゃないの」
「おい、硝子」
 呆れたような口調で吐き捨て、家入は室内へと戻って行く。夜蛾も「こんな場所で説教する気にもならん」と言い残し、暗闇のなか学舎の方へ戻っていった。
「気持ちに折り合いがつけられないのなら、そうすべきだと私も思うよ。君の持論では、愛ほど歪んだ呪いはないんだろ?」
 オリオン座の下で、彼の親友は口にした。
 寝ているときはどこへも行かない、だなんて子どもがするような発想である。しかしなまえに眠りの呪いをかけたのは、紛れもなく恋人の五条だった。
眠り姫