(五条)

 いつも通りの時間に起きて、いつも通りの朝の番組を見ながら、いつも通りの朝食をとる。食事を終え歯を磨き、ぼちぼちと出勤に向けて身支度を整えていく。テレビはずっとつけたままだ。
 何パターンかある洋服の組み合わせのひとつを選んで着替えたら、思ったよりも時計の針は進んでいて、私は慌てて化粧を始める。余計なことは何ひとつしていないのに支度が遅いのは、私の悪い癖である。窓の外からは、通学中の子ども達の声が聞こえた。
 慣れた手順で、地肌より少し明るい下地をまんべんなく塗って粉をはたき、コンパクトミラーを傾けながら薄い眉毛の上にパウダーを乗せていく。眉尻をしっかり描いて眉の形が出来たら、今度は目もとにうつって、片方ずつまぶたにブラウンのアイシャドウを重ねた。出勤前のメイクは、これでほぼ完成である。
 少し前まではアイラインもマスカラも身だしなみ程度に施していたのだけれど、今は一秒でも鏡に触れる時間を減らしたい。そう、アレが見えてしまうから。

 以前から存在したのか、突然現れたのか、はたまた私が変わってしまったのか、理由は分からない。私がそれを初めて認識したのは、なんてことない平日だったはずの昼休み。職場の七階フロアにある化粧室で、鏡越しにだった。
 毎回同じメンバーである先輩と同僚とのランチタイムを終え、手洗い終わりに化粧直しをしようと前を見たところ、鏡に映る私の背後にそれはいた。
 等身大程度の大きさをしたそれは、土留め色をしたタワシの輪郭に手足がくっついたような姿を成しており、図体から生える枯れ枝のような手足は信じられないほど細い。なんてったって最もおぞましいのは、身体の三分の一を占めるほどの大きな目玉で、太いまつ毛と幅の広い二重が気味悪さを増長させている。そして比率が合わぬほど小さな唇は、鏡越しに目が合った私に向けて口角を上げていた。
 思わず悲鳴をあげて背中を振り返るが、そこには先程までと変わらぬ空間が広がっているだけで。隣でどうしたのと心配する同僚と、トイレから出てきたばかりの先輩しか居ない。
 何でもないと言いつつも、あの化け物がとても現実世界に存在する生物とは思えなくて、その時は自分が幻覚でも見たのかと思った。
 しかし、足の震えが止まぬまま前を向き直すと、やはりそれはそこにいた。同僚はもう変わらぬ様子で、鏡を見ながらリップクリームを塗り直している。今度は黄ばみきった歯も見せて、ねっとりと笑ったそれに、私だけが視えているものだと確信した。
 そして、二度とこの化粧室は使わないと誓った帰宅後。自宅マンションで、洗面所の鏡に再びそれが映った時には、さすがに泣いた。

 幸いなことに、私はアレを鏡越しに視ることが可能なだけで、気配を感じとることは出来ない。例え不意に見えてしまった時も、アレはただ後ろに居るだけで、直接私に何かを仕掛けてくる訳ではない。
 だから本来なら、日常生活にそれほど支障をきたさないはずなのだが——、あんな化け物が常に自分の背後にいると思うと、恐怖と嫌悪感で、それだけで気が狂いそうになる。
 いっそのこと常に鏡を持ち歩いて、監視下に置きたいと思ったこともあったが、ギョロっとした目玉はやはり恐ろしくて、なるべく視ないことを私は選んだ。
 自宅の洗面台の鏡と全身鏡には、常に布を掛けた。しかし身だしなみの事もそうだが、完全に鏡を避けて生活することは難しい。通勤路のカーブミラー、交通機関のバックミラー、職場の女子トイレ全てに設置されている手洗い場の鏡、生活用品を買いに寄ったドラッグストアなど、挙げだしたらキリがない。
 あれから二週間が過ぎようとしているが、私以外の人間は変わらない日々を送っていて、先輩も同僚も上司も、誰一人化け物が身近に潜んでいる事に気がついていない。
 対策も見つからないまま、毎日何かしらの場所で存在を確認してしまうアレが消えてくれる予兆も全くなかった。


 出勤時刻が迫っている。最後にピンクベージュの口紅を塗ろうとスティックを回し、反対の手で口もとだけを映すように鏡の角度を調節する。
 上唇に形をつけて、あとは下唇をというとき、鏡の端に私の首を這う、腐りかけの細い指を捉えてしまった。
「ひっ!」
 悲鳴とともに、私は両手からそれぞれ手鏡と口紅を落としてしまう。真っ先に目に入ったのが口紅で、力がこもってスティック部分を動かしてしまったのか、必要量以上に飛び出た紅部分が落下の衝撃で折れてしまっていた。
 近くに落ちたミラーは何ともなくて、拾いついでに恐る恐るもう一度首元だけを見たが、もうそこに化け物のおぞましい手はなかった。一安心して、力が抜ける。
 鏡をローテーブルに伏せたあと、口紅を大切にひろった。人から貰った物だったので、少しだけだけ他の化粧品よりも思い入れがあったのだ。
 よく見ると芯から折れてしまった訳ではなかったので、口紅はとりあえず丸ごとティッシュにくるんで、私はそのまま家を出た。



 いくら最寄駅が徒歩圏内にあろうと、いくら電車が数分おきに来ようとも、先程の出来事のせいで、おおよその電車に乗る時間をとうに超えていた。
 私は通い慣れた通勤路を小走りで駆ける。こんな日に限って、タイトスカートの組み合わせを選んでしまっていた事を後悔するも、今さら着替えに戻る手間さえ惜しい。
 それにしても、息が苦しい。私が平常心でない事を差し引いても、マンションの入口を出てから一分足らず。まだ息切れするには早過ぎる。
 頭痛も出てきて、急に身体が重くなった。カツカツと鳴るヒールは、きっと小さな歩幅になってしまっているのだろう。
 アレのせいとは思いたくないが、通り過ぎたT字路のカーブミラーに、私の背について回る姿を間違いなく見ている。しかしそれはここ数週間の私にとって、普通の範疇の出来事だ。ただあとを追うだけで、ピッタリと張りつく様子ではなかったし、今朝のように直接触られていなければ今は構わない。
 コンビニ前の信号で立ち止まる。私は通勤バッグからスマホを取り出して、画面を操作する。
 ゼーハー、ゼーハー、と異様な息切れの仕方だ。何かがおかしい。視界も霞んできた。会社に遅刻、いや、欠勤の連絡を——。

「頭、下げて」
 視界が黒く染まりゆく最中。聞き覚えのない、それも私に向けてのものだと認識してないうちに、おそらく男であろう見知らぬ声の主に頭部を鷲掴みにされた。こんな状態でなければ、迷わず悲鳴をあげていた。
 けれど抵抗する間もなく、男の腕力だけで私は上半身を折られる。その姿はまるで意に反する謝罪のため、無理矢理頭を下げさせられた人間のようだったろう。
 このままの勢いで下半身も崩れ落ちていくのではと思いきや、先程までの息苦しさが嘘のように、突然呼吸がスムーズになった。
 無意識のうちに目も閉じていたのか、どんどん視界が開けてきて、私は自分の靴先とアスファルトを認識する。
「大丈夫?」
 そう尋ねるのは、同じ声のトーンの人物であった。
 先刻頭を鷲掴みにした手は、いつの間にか私の腰に回されている。自力で立とうとするが、腰が抜けたように足の力がうまく入らず、おかげで地面に膝をつかずに済んでいる事がわかった。
 今度はその腕に支えられながら、私はゆっくりと顔を上げる。
「はい、なんとか。……あの、ありがとうございます」
 私が礼を告げた眼前には、目もとを黒い布で覆い隠した怪しい白髪の男性がいた。



 これまでの疲れもあったのか、もしくは足を踏み入れてしまった見知らぬ世界の情報量に、頭のキャパシティが追いついていないのか。治療後にもかかわらず立ちくらんだ私は、強制的にベッドで休むと羽目となった。
「そういえば電話、救急車呼ぼうとしてたの?」
「いえ、出勤途中急に体調が悪くなったので会社に欠勤の連絡を入れようと」
「社畜じゃん。ウケる」
 くつくつと笑いながら、目隠しをしたままの五条さんは、ベッドに寝かされた私を覗き込んで言う。
 周囲の視線を集め出したところで、彼は私を抱えてトんだ?らしい。次の瞬間には、見知らぬ建物の中にいて、私はすぐさま医師の診察をうける事になった。
 今朝家を出る前には無かったはずの斑らな痣が首を一周しており、私はあの化け物に締め殺される寸前まできていたという。すでに呪われていた私は、直接触られていなければ大丈夫という段階ではなかったようだ。あれだけ息苦しさがあったのも、首以外に内臓も文字通り呪霊に握られていたからだと聞いた。
 傷口の確認のため、女医に鏡を差し出されたとき、反射的に身を縮めた私を見て、その場に居た二人には、これまでの経緯を全て話した。
 そして、ベッドへ横になった私の隣に腰掛けた五条さんは、アレがなんだったのか、なぜ人を襲うのか、さらに自分達が何者なのかを、今度は彼が私に語って聞かせた。
「二週間ちょっとのあいだ、ずっと見えてたの?」
「鏡越しにだけですけど」
「そういうパターンもあるんだね」
「……五条さんは見えているのが、当たり前なんですもんね」
「まあね、でも僕は全部自分で対処出来るから」
 なんの謙遜もなく、彼はそう口にする。五条さんの凄さをわからない私は、まだ一般人の域を出ていないらしい。
「きちんと祓ったから、安心して。もうナマエちゃんの後ろには何も居ないよ」
「本当に」
「うん、大丈夫。だから安心して眠っていいよ」
 五条さんの大きな手が、震えるまぶたを下すように私の目もと覆う。けれど、堰を切ったかのように流れ落ちる涙を、私は止めることが出来なかった。
「五条さん、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 口紅が折れた日、私は運命の人に出会った。
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