朝起きてすぐに顔を洗う。それから基礎化粧品で保湿をしたあと、私が朝食の準備よりもまず先にすることは、鏡台へ向かい化粧を施すことだった。
彼と婚姻を交わしてから昨日で丸一年が過ぎた。呪術師の家系である夫とはいわゆる政略結婚で、家長同伴のもと行われた三回目の面会時には、すでに入籍が済んでいた。その後、向こうの家が用意した新居に私が移り住み、何度か顔を合わせただけの彼と二人きりでの生活が始まった。
最初は何をするにもよそよそしく、夫が仕事へ出てひとりで家事をしているだけの時間ですら誰かに見張られているようで、私はずっと心が落ち着かなかった。けれど時間が経つにつれて私と同様、自由を奪われた彼に対しても少なからず同情した。
私達が婚姻を結び両家が親類縁者となったことで、すでに双方の家には利益がもたらされている。こうしていても後戻りは出来ず、状況も何も変わらない。だから私は彼に向けて、毎日少しずつ歩み寄る姿勢をみせた。好きな食べ物を尋ねてみたり、良かったと言った映画を観てみたりと、とにかく私は夫となった人を知ろうとした。
するとそれにしたがって、彼も妻としての私を受け入れる態度を示してくれた。家事や料理を褒められるようになって夫に初めて抱きしめられたとき、ようやく私は自宅となった場所で気を休めることが出来た。
しかし安寧は続かない。私はその日、買い物帰り強い雨に降られてしまった。雨宿りをする暇もなく全身濡れてしまい、帰宅後は買った食材もそのままに浴室へ直行し、シャワーを浴びることにした。身体が温まったところで浴室をあとにして、髪までしっかり乾かしてから脱衣所を出る。するとドアの前に無表情で夫が立っていた。
訝しげに思いながらも「お帰りになっていたんですね」と、私が口を開こうとしたその瞬間「俺の許可なく先に風呂に入るな!」ともの凄い勢いで怒鳴られた。続けざまに「出迎えもせず荷物も放りっぱなしにして、不貞行為を働いたから急いでシャワーを浴びたんだ!」とまで罵られる。
素朴な人だと思っていたが、やはり彼も男尊女卑の風習が残る呪術師の家系の男だった。私に覆い被さって「俺より先に寝るな、俺より後に起きるな、美味い飯を作れ、だらしない姿をさらすな」と次々と時代遅れの発言が飛び出る。好き勝手に揺さぶられながら、身近な男性だったうちの父や祖父、それに今回親類となった義父と同じく彼も性格が破綻していると思った。
この日を境に、本性を現したかのように夫は私にかなりキツく当たるようになった。それと同時に私も再び心を許せなくなり、必ず彼が寝てから風呂へ入り、彼が目覚める前に起きて化粧をするようになった。
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灰色の日々が続くとある日、私の父方の親戚から夫婦揃ってお祝いの席に招待された。彼は私の実家の行事にはことごとく参加したがらないくせに、相手方が名家だとわかると急に乗り気になった。大概見栄を張りたがる男のため私の着物まで新調し、家を出る直前には「俺に恥をかかすなよ」と念を押される。
会場に到着し受付を済ませると、夫は早速意地汚い挨拶回りを始めた。目上の者にはヘコヘコと頭を下げ、目下の者には自慢話を聞かせ威張り散らす。私は言いつけ通り常に彼の三歩後ろを付いて回っていたが、恥じらいを越して呆れ果てているので、すでになんの感情も抱かなくなっていた。
ようやく気が済んだのか、夫に連れられて人通りの少ない廊下へ出る。すると完全に人気がなくなったところで、後ろを振り向いた彼に「他の男に色目を使うな」といきなり頬をぶたれた。どうやら私が会釈を返したことを言っているらしい。もうこの人の滅茶苦茶な言い分に疑問を覚えるのも疲れた。
もうすぐ披露宴が始まる時間だ。頬の表面は熱を持ち出し、口内には鉄の味が広がっている。口の中を切ったのでゆすいでくると言ったら、すんなり解放された。今更だが、母も私が知らないところで父に暴力を振るわれていたかもしれないと思ったら、自分のこと以上に急に悲しくなってきた。感情が決壊して涙が出る前に、早足でお手洗いへ向かおう。
「——ナマエ?」
打たれた顔を見られたくなくて、頬を押さえながら私は俯き加減で廊下を歩いていた。するとすれ違った男性から声を掛けられる。親戚かもしれないと思い、私は出来るだけ頬を隠して仕方なく顔を上げた。
「!五条さん、ご無沙汰しております」
意外な人物ではあったが、ここまで長身で若い白髪の男性と言えば彼しかいないのに、どうして気がつかなかったのだろう。五条さんは私の学生時代の先輩だ。
兄が亡くなる前は父の私への期待値も今より小さく、束の間の自由を手に入れる形で一年と少しだけ呪術高専にも通っていた。彼は二学年も上であり接点も少なかったので、まさか私なんかのことを覚えてくれているとは思いもしなかったが。
「そこ、ほっぺた。痛そうだね」
「……ぶつけてしまって」
最後の記憶よりも彼はさらに物腰が柔らかくなっているが、その威厳を感じ取れないほど私も耄碌してはいない。視線は鋭く、嘘は完全に見破られているだろう。さらに五条さんは私の左手に目線を移して言った。
「旦那かな?」
真実に思わず目を逸らすと、逃さないと言うように彼は長い脚でぐっとこちらとの距離を詰めた。私もとっさの反応で震える足で後退りをするが、とっくに追い詰められており着物の帯に背後の壁が当たる。そしてこういう時の定石通りドンと音を立て、五条さんの両手が私を挟んで壁につけられた。サングラス越しの青い目が降りてきて、同じ高さで合わさる。
「僕は変わらず、今でもナマエのことを可愛い後輩だと思ってるよ。だから選んで。僕に救われる気があるならここにキスして。救われる気がないなら腕の間をすり抜けてもらって構わない」
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式場を抜け出して五条さんとともに、私が夫と暮らす今の自宅へ向かった。当然部屋には上がってもらうが、ここでの支度に関して彼に頼めることは何もないので、好きなようにくつろいで下さいと伝える。
「コーヒー飲んでもいい?」
「お気遣い出来ず、すみません。ホットとアイスどちらにしましょう」
「勝手にするからお構いなく。それよりナマエはちゃっちゃと荷物まとめちゃってよ」
「そうですね、すみません。同じ棚に甘いものもあるので、お好きなものを召し上がってくださいね」
「はいはーい」
夫はそれほど頭の回る男ではない。私が戻らない事に気付き、ここへ辿り着くまでにはある程度の時間が見込まれる。ましてやこの場に五条悟がいることなど、想像にも及ばないだろう。急ぐに越した事はないが、私は少し心の余裕を取り戻すことが出来た。
着物から動きやすい私服に着替え、貴重品と必需品を急いでバッグに詰める。大きくは違わないが、まるで夜逃げの準備をしているようだと思った。それに身分証明書や自分名義の金融書類など、夫と完全に別保管になっていたところを思うと、改めて彼とは信頼関係を築けていなかったのだと実感した。
私は最後に鏡台の引き出しを開ける。化粧品は基本消耗品であり全て買い直せば良いのだが、結局買っても荷物になることは同じなので常用している物は可能な限り持っていくことにした。
その中で、一本の口紅を荷物の中に仕舞おうとして手が止まる。これは華美な化粧に良い顔をしない、夫のために選んだのものだった。遠慮がちで控えめで、自分の好みとは違う薄めの肌に近い色。
「ナマエー?まだー?」
「もう行きます」
私はその口紅で鏡に文字を書き、夫へ向けたメッセージを残した。ここから逃げたところで、今後について話し合うべき事はいくつかあるはずなのに、直感的にもう彼とは二度と会うことはないだろうと思った。
そして私は五条さんに差し伸べてもらった手をとる。すると彼は拒めないけれど優しい力で、私を自身の方へ引き寄せた。五条さんの体温をそばで感じ、自分の胸のあたりに何とも言い難いものがじんわりと広がる。
私はもうきっと大丈夫だ。彼が空いた手で荷物を持ち、折れた口紅はそのままに私は家を出た。