彼の様子がおかしい。そう確信したのは、彼が海外出張から帰ってきて二日目の夜だった。彼の態度が冷たい訳ではなかったけれど、私が話すことへの反応があまり芳しくなかったから。彼は長期出張で疲れているのに、私は自分のことばかりで申し訳なかったと反省していたのだが、どうやらそれだけではなかったらしい。
今まで私が異性と二人きりで任務に出るときなど、彼なりに面白くない部分もあったようだけれど、束縛が激しいとか何かを制限されているとか。私は彼から、そういう類のことを感じたことはなかった。何でも出来る人だからこそ、きっともどかしさもあっただろう。でもその彼が何も口出しをせず見守ってくれる優しさが、私には嬉しかった。
だから与えられたはずの任務に、危ないから代わりを派遣したと言われたときは、一瞬何かを聞き間違ったのかと私は自分を疑った。しかしもう一度聞き直したところで、ましてや彼の言い間違いでもなくて。私は目の前の人物の権力によって、現場を外されていた。
「……じゅ、呪術師をやっている以上、危ないのはみんな一緒だよ。それでも、そのなかで……。たぶん、生存確率が高いって判断されたから。私が今回の任務に選ばれたんじゃないかな?……いつも以上に気をつけるし、大丈夫だよ?」
自信はなかったし反論とも捉えられたくなかったが、私は震える声で自分なりの正当性を訴えた。私は彼の受け持ちの生徒ではない。本来ならば、彼に私の任務の人事権など与えられていないはずなのだ。しかし私の恋人は冷たく言い放つ。
「今回は現場での最高戦力である僕の判断だ。ていうか、今後オマエには任務回さないようにしたから」
面と向かって言われると、胸の奥の方に形のないものがずしんと重くのしかかった。だけど急になんで、どうして。私は何か彼の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。去ろうとする彼に理由を問いただしても、その腕を振り払うようにあの人は帰ってきたばかりの部屋を再び出て行ってしまった。
それから今までの多忙が嘘のように、本当に任務が振られないまま二日が経過した。もちろん私も何もしなかった訳ではない。補助監督の執務室へ行って、学長のところにも直談判へ向かった。
だけど私の呪術師としての藉はすでに抹消されていて、いくら勝手知ったる人間であろうと無許可で仕事は貰えないとのことだった。そのうえ私は身に覚えのない重大な規律違反に触れたことになっており、人手不足のなかでも例外を認めず、復籍もすぐには難しいと言われてしまった。
誰にもすれ違わないまま、西陽で出来た自身の影を追うように私は高専をあとにする。恋しい場所ではなかったはずだが、去るための一歩を踏み出すたびに学生時代も含め、ここで過ごした思い出が溢れでてくる。
彼と肩を並べることは難しくても、私は私の役割を精一杯果たしているつもりでいた。誰にでもなれるものではないから、呪術師という職業に誇りも持っていた。彼や家族、友人にも恵まれて、仕事が全てという訳ではなかったと思う。それでも私にとって失ったものは、人生の何割かを占めるとても大きなものだった。
だからこれはきっと私なりの現実逃避だ。普段は敬遠しているお酒を私は飲んだ。
カウンターに肘を置きながら、照明の色に染まるジントニックを見つめる。彼や友人に知られたら、また真面目すぎると笑われるのだろう。だが、ふらっとお洒落なバーに入れるほど私は気が大きくないので、こんなときでもおひとり様歓迎のお店をきちんとサーチした。
初めてのお店だったが、口コミ通り料理も上品なうえ居心地もよくて、いつもは飲まないお酒がついつい進んだ。グラスの縁についた口紅を最後に拭ったのは、一体どのくらい前のカクテルだっただろうか。薄暗い店内でふわふわと心地よい酔いに浸りつつも、身体は重力に逆らえずどんどんと沈んでいく。目蓋まで落ちると、もう自分がどんな体勢でどこにいるのかわからなくなっていた。
「——どこまで探しに来させるんだよ」
ごめんなさい、と反射的に出た言葉は酒に溺れた自分が描いた希望的観測なのだろう。だって私はすでに、彼に見限られているのだから。
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僕の腕の中で眠るナマエの身体を、そっとベッドへと寝かせた。規則的に揺れる胸元に一度は安堵したものの、無防備に晒される首筋と鎖骨を見て、こういう服はあまり着てほしくないと身勝手な思いに駆られる。
僕も一緒にベッドへ乗り上げて所有の印をつけると、彼女は小さく声を上げた。肘をついて様子を窺うが、穏やかな寝息に戻りつつあるようで、まだ脳は眠っているみたいだ。
「どうも周囲が、きな臭くなってる。だからせめてオマエだけでも遠くに逃がしたい」
起きているときに伝えたとして、ナマエはきっと事態に抗い、あろうことか最強と云われる僕の盾になろうとする。以前もそんなことがあり、僕が再度それを許すはずもなかった。
そっと髪をかき分けて、涙で濡れた睫毛へと静かに口づけを落とす。大切にしすぎている、なんて言葉では安すぎる。本当は僕しか知らない場所に、決して他の誰の目にも触れないよう、彼女を隠してしまいたいのだから。