(高専五条)

 授業や任務が終わった予定のない午後に、悟が私の寮の部屋へやって来るのは珍しいことではない。
 女子が生活するフロアは名目上男子禁制だし、私達は年頃の男女だし、廊下でばったり会うと隣の部屋の硝子は嫌な顔をするけれども。
 否!悟と付き合って二ヶ月半、私達はまだ清い関係しか結んでいないのだ!なんとなく見つめ合ってそういう空気になったことはあるが、エッチどころか、キスすらしていない!
 今日もおやつにホットケーキを一緒に作って食べるという大義名分を掲げて、彼はこの部屋を訪れている。

「ちょっと、いっぱい粉こぼしてるんだけど!」
「ボウルは小せえしキッチン狭いし、台は低いし腰曲げなきゃなんねーからつらいんだよ。それより、もっと火強めた方が早く焼けんじゃない?」
「中に火入んないまま、表面だけ焦げるからダメ!あっ、ちゃんと布巾の上でフライパン冷ましてから生地は入れて!」
 一応彼から正式な告白を受けて、私は友達から彼女という唯一のポジションに昇格した訳だが。これだけ二人で居ても甘い空気にならないのは、私に問題があるのだろうか。
 悟が貴重な時間を割いてここに居てくれてると、頭ではわかっている。でも掛け合いも戯れも友人の頃と変わらないからこそ楽し過ぎて、密室なのに恋人同士なのにホットケーキも盛り盛り食べれちゃうし、万が一のことになったら今日の下着がダサいとかムダ毛の処理が大丈夫かとか、先に進む緊張感みたいなものが全くない。
 シたくないって事じゃないんだけど、今さら私で欲情出来るの?みたいな。悟相手に友愛と恋愛の違いを、今の私は上手く述べられないかもしれない。

「普通に美味かったな」
「でしょ。今日はバターとシロップしかなかったけど、今度はホイップとかチョコソースも用意してみよっか」
「あと果物も色々乗せたい。缶詰も買っといて」
「そこまで来ると盛りつけに凝りだして、もうケーキみたいになっちゃいそう」
 そんな会話をしながら、普段通りケラケラと二人で笑い合う。ローテーブルの皿もティーカップもすでに空になってしまったので、そろそろお開きになりそうだ。
 もっともこういう穏やかな時間は、悟を呼び出す電話が鳴って、場が終わることがほとんどである。私が思っている以上に彼は過酷な任に就いているようで、かなり酷い顔をして帰ってきた時もあった。
 今は無邪気な笑みを浮かべる、幼い顔を私は見つめる。
「あ、唇の右端にシロップついてるよ。ほら、ティッシュ」
「ん」
 気付いた私は箱からティッシュを一枚差し出したのに、悟は顔を突き出した。取ってってこと?お坊ちゃんなんだから、しょうがないなあ。
 今日に限ってサングラスも外していて、彼の口もとに手を伸ばすと、蒼い瞳が直接私を射抜いた。見慣れなくてちょっとドキッとする。
「シロップは取れたけど、なっ、なんか唇カサカサしてるよ。リップクリームぬってあげよっか」
「いいよそんなの」
「切れると痛いから」
 間が持たなくて悟の制止も聞かず、私はすぐそばの勉強机の上にあるポーチから、リップクリームを取り出した。日中使用している色付きのものではなく、薬用と掲げるケアのための無色透明の方である。
 震える手でキャップを外してスティックを回し、表面をティッシュで拭ったあと、再び彼の方を向き直す。すると、熱のこもった視線とぶつかった。
「ナマエ」
 今の今まで、そんな目で私の事なんか見たことなかったじゃん。いつの間にか立ち上がって私を見下ろす悟に指を絡め取られると、指からリップがすべり落ちた。
 カツン、と床が鳴る。あ、欠けた。
 コロコロとフローリングを転がっていくそれを見ていたら、そのまま悟にベッドへ押し倒される。さらに視界が彼だけになり、フサフサの睫毛が迫ってきたと思ったら、乾燥気味のサラサラとした唇が重なった。
 ——熱い。そう思ったときには、世界が反転していた。



 突然切り替わった、完結しない世界とも言えるやけに見覚えのある空間に、俺は危機感を覚え、瞬時にナマエを掻き抱く。しかし身体が動いたのはそこまでだった。
「あー!高専生の頃のナマエだー!かっわいいー!」
 まるで女子高生のようなはしゃぎ声を上げて、こちらに駆けてくる男の呪力は、自らのものと類似している。服装は違うが外見も限りなく寄せていて、というか俺じゃね?
 そいつは俺の腕を解き、同じく固まったままのナマエの両頬を手で覆うと、なんの躊躇いもなく口づけを落とした。
 身動きが取れないまま、情報だけが頭に流れていく。無量空処をくらったかのような今の状況は、何もかも見えているというもので。俺の眼前で、ナマエが俺じゃない俺にキスされている。それもぶちゅーと音がしそうなくらい特濃なやつ。かろうじて舌は入れられていないようだが……ふっざけんなよ!自分はついさっき、初めて彼女と唇を合わせたばかりである。
「あ、ごめんごめん。ナマエはこっち側に入れてあげるから、オマエは自分で無限張って」
 ひと通り彼女の唇を堪能した目の前の男は、俺達に呪力を流すと、ナマエだけを抱き上げてしまった。
「あー、来たときの刺激が強かったかなあ。起きないや」
「おい!」
 すぐさま掴み掛かろうとするが、すんでのところで触れられない原理はよく分かっている。
 なんのつもりか知らないし、意味不明な状況に変わりはないが、目隠しをしていても男が慈しみの目でナマエを見ていることには間違いなかった。
「もしかしてオマエ、ナマエと初チューしたばっか?」
「なんで知ってんだよ」
「僕が未来の君だからだよ」
 男は口角を上げて笑みを浮かべる。俺は俺でも、今の自分より数段格上だってことはこの目で嫌なほど見えているので、無駄な抵抗はやめた。

 渋々聞いた説明によると、現在どうしようもない状況とやらのコイツが過去を振り返っていたところ、過去——つまりさっきまでの馬鹿みたいに緊張した俺が放出した呪力とリンクし、過去と現在が交差した本来は存在しないハズの空間とやらを、生み出してしまったらしい。
 現実世界ではない夢みたいな空間だが、俺達は間違いなくここに実在しているし、気を失っている彼女はともかく記憶にも残るそうだ。
 そして未来の俺によると、自分のときもすぐにナマエをベッドに押し倒してキスしている瞬間に戻れたと言っている。
「俺最強なのに、どうしようもない状況って何?」
「変えたい過去もあるけど、変えたくない未来があるから言えない」
 胡座をかいて、自身の腕の中のくったりと力の抜けたナマエの髪を梳きながら、男は言う。ここへ来てから俺の方なんて一度も見やしない。何年後か知らないが、今でもそんなに彼女のことが好きなんだと思うとゾッとした。
「なんだよ、それ」
「いずれ君にもわかるよ。それよりしばらくネタに困らないように、若いナマエのすっぽんぽんでも目に焼きつけておこっかな」
「はあ!?ふざけんな、俺もまだ一回も見たことねーんだよ!」
「確かこの流れでヤったよ。あ、おっぱいはまだ発展途中みたいだね」
 とんでもない爆弾発言が落とされたが、服の上からナマエの乳を揉み揉みする姿に、堪忍袋の緒が切れ爆発した。何がって『怒 り で 俺 の 呪 力 が』だよ!



 あまりの緊張で、私は一瞬気を失っていたような気がする。しかし時は干渉を許さず、一定の速度で進み続けていた。
「っ、んん、やあ、」
 私の上に覆いかぶさる彼は啄むような口づけを続ける一方、服の中へ侵入を許してしまった手が、執拗に左の胸ばかりを揉みしだいている。あまりボリュームはないので、心臓まで鷲掴みにされそうな勢いだ。
 何が悟のスイッチになったのかは知らないが、ただ唇同士を合わせただけのキスが、口のまわりがベタベタになるような濃いものになって、ついには意図を持ってしか触れないような身体の部分にまで彼は手をやる。
「あー好き。絶対誰にもやんねえ」
 のんきにホットケーキを食べていた時間は、どこへやら。
 これ以上先に進んでしまうと、落っことしてしまったリップを拾うことすら、私は忘れてしまいそうだ。
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