(五条)

 濃紺の生地に白とピンクの紫陽花が散りばめられたこの浴衣は、私が自分のお給料で買ったものである。時給で働く普通の学生のアルバイトとは違い、命を懸けて呪霊を祓った対価は期待以上の報酬となり、一仕事終えただけで髪飾りから下駄まで一式揃える事が出来た。
 さて、店員さんに勧められるがまま勢いで購入したところまでは良かったが、自室で何度か練習してみても裾の長さがずれたり胸元や足もとが開けたりと、なかなか浴衣が形にならない。
 当日までに一人で着られるようになるか心配で、軽い相談のつもりで歌姫先輩を頼ったところ、恋愛事と口走ったばかりに追求を逃れることが出来ず。なんやかんやで私は悟くんとの馴れ初めを、全部自分の口から喋ってしまった。
「あんたさあ、五条のどこが良いわけ?」
「口は悪いけど、案外優しいんです」
 歌姫さんはかつてないほど顔を顰めたが、指導に手を抜いたりはしなかった。彼女が要領の悪い私に心広く付き合ってくれたおかげで、数時間後には一人で浴衣を着付けられるようになっていた。御礼はノロケ話でいいと言うのだから、彼女は本当に優しい先輩である。

 そして迎えた当日。時間に余裕をもって着付けに臨んだが、特訓の成果もあり今までで一番綺麗に帯まで結べた。編み込んだ髪も薄めに施した化粧も、気合いが入りすぎているようで、出掛ける寸前になって逆に恥ずかしくなってきたくらいである。
 日が傾きだし寮を出たところで、私は制服姿の夏油くんとすれ違った。
「お疲れさま」
「おつかれ。どこかへお出掛けかい」
「うん、七夕のお祭りに行くの」
 私がそう答えると、何かを思い出したかのように彼は、なるほどなるほどと頷く。悟くんが彼にどこまで話しているのか正確には知らないけれど、硝子ちゃんに恋が実ったと伝えたところ、それより前に夏油くんを経由して聞いたと言うのだから、ある程度が筒抜けであることは間違いない。私と悟くんが初めてキスをした日も、彼はおそらく知っている。
「悟とはどこかで待ち合わせなの」
「そうなの。お昼過ぎに出先から時間ギリギリになりそうって連絡がきて、急遽現地集合することにしたんだ」
 一応この地区の地元の七夕祭りとはいえ、高専自体がかなり山奥にあるため、街に出るまでにどうしても時間を要してしまう。お祭りも午後九時頃にはお開きになると聞いているので、それならばと私から彼に提案した。私とのことで、悟くんにはなるべく負担をかけたくない。
「浴衣じゃ歩きにくいだろうし、近くのバス停まで送ろうか。呪霊でだけど」
「いいよいいよ。そわそわしちゃって、時間を持て余してるからゆっくり行ってくる。気を遣ってくれてありがとね」
「それならいいけど。浴衣よく似合ってるよ。気をつけてね」
「ありがとう」
 とても気が利くところも柔和な返答も、悟くんが夏油くんに何でも打ち明けてしまう気持ちが少しわかった気がした。



 僻地とはいえ、やはり大都会東京。小さな神社のお祭りと聞いていたけれど、私の地元の三倍は人が居た。
 時刻は十八時を少し過ぎたところである。悟くんからは十六時の時点で、都心の仕事をもう一件片付けたら向かうとメールをもらっている。
 しかし任務終了の連絡を受けてから高専を出発していると、確実に彼を待たせてしまう。なので私は時間を逆算して出てきたのだが、いやはや先走りすぎたのかもしれない。
「待ち合わせ?友達と?俺も連れがいるんだけどさあ」
「すっげー可愛いね。このまま二人で祭り回らない?」
「ツレが屋台出しててさあ、良かったら食べてって。つーか奢るし」
 という事が立て続けに三件あった。次々と待ち人が来る改札口に一人いつまでも居ると、美人じゃなくても気弱そうな女は、ナンパのカモになってしまうようである。
 また電車が到着したのか、改札に人波が押し寄せる。それを最後まで見届けるものの、悟くんの白い頭は見当たらない。次の電車が来るまでの時間、私は巾着から携帯電話を取り出しパカパカと開いて閉じてを繰り返す。その一連の動作を約二十回。合間には呆れるようなナンパ男が数人。
「……よし、行こう」
 こうしていたからと言って悟くんからの連絡を貰える訳でもないので、私はひと足先にお祭りの下見をすることにした。

 七夕祭りというだけあって駅を出るとすぐ、色とりどりの吹き流しや短冊のついた笹が飾られていた。そして大通りは歩行者天国となっており、神社までの数百メートルを左右に広がって屋台が並んでいる。日も完全に落ちて、街はお祭りムード一色だ。
 人の流れに従って、私もそこを歩くことにした。ざわざわと響く周囲の声はみんな楽しそうで、私みたいに一人で祭りを回る人間など、ここにはいないのかもしれない。けれど先程のように駅で彼を待つよりも、人混みのなかへ紛れていた方が、不快感はあっても孤独感は少ない気がした。
 数々の食べ物の匂いに惹かれつつも、彼とこのあと回ることを考えて、私は空腹を主張するおなかに手を当てる。そうすると、直線距離ではあっという間に神社へ到着してしまった。
 人気の少ないところで私は再び携帯電話を手に取った。もう十九時半を回ってきたが、未だに悟くんから任務完了のメールはない。まさか悟くんがと思いつつも、私達は常に死と隣り合わせの場所にいるのだから、彼も例外ではない。
 迷惑も承知で、私は思い切って通話ボタンを押してみた。だがすぐに機械音声が応答し、悟くんの携帯電話は電波が届かないところにあるか、電源が入っていない状態にあるときた。つまりまだ彼が帳の中にいるということだろうか。私のなかで嫌な想像ばかりが膨らむ。
 落ち着かないのでもう一周、屋台通りへと思ったのだが、動き出しとともに指の付け根に痛みが走った。きっと慣れない下駄の鼻緒部分で、靴擦れを起こしているのだ。
「着てこなきゃよかった……」
 思わず私は呟いてしまう。新品の浴衣も帯も髪飾りも下駄も巾着袋も全部ぜんぶ、彼に見てもらえないのならば、私にとっては身につけてきた意味がない。
 見上げた夜空は雲ひとつなく、満点の星空が広がっていた。こんな明るい場所じゃ天の川は見えないけれど、きっと織姫と彦星は私達とは違い、星々に祝福されながら感動の再会を果たしていることだろう。……年甲斐もなく、おとぎ話に思いを馳せると、なんだか泣きたくなった。



「——ねえねえ、君ひとりなの」
 足の応急処置のため、神社の駐車場ブロックへ腰掛けると、私はそのまま立てなくなってしまった。周囲を眺めていても妬ましいだけなので、顔も伏せた。
 だから面倒な声掛けも無視したいところだが、さらに面倒事を引き起こされても困るので、私は仕方なく膝に埋めたままだった顔をあげる。
「!悟くん」
「こんだけ人が居ると携帯の電波もバグるんだな。全然電話通じねーし、この調子じゃメールも届いてねーんだろ。ナマエちゃんの彼氏に六眼があって良かったネ」
 しゃがんで私に目線を合わせた悟くんの蒼い目は、いつもの丸いサングラスを掛けずに、真っ直ぐ私だけを見つめていた。
 常日頃から見えすぎて困ると愚痴を溢しているが、今晩彼はその特別な目を使って、ここに存在する何千人もの人の中から、私を見つけ出してくれたのだ。余計な労力を使わせて、安くはない時間と手間をかけさせてしまったのに、私は胸がじんわりと熱くなる。
「ほら、立てる?」
「うん」
 差し出された大きな手に自分のものを重ねると、彼は勢いよく私を引き上げた。しかしその際に、足の親指と人差し指の間がピリッと痛んだ。応急処置として絆創膏を貼ったのだけど、結構ひどく皮が捲れている状態は変わっていない。鼻緒部分には多分血が滲んでいる。
「……掴まってな」
 手を繋いだまま、悟くんは私を連れて境内の屋根の上までトんだ。そして瓦屋根に私を座らせると「何か食いもん買ってくる」と言って、すぐさま下へ降りていった。



「あーん」
「ん」
 ものの五分で両手いっぱいの屋台土産を買って戻ってきた悟くんは、私を横向きして自身の膝の間に座らせた。それから私に向かって当たり前のように「手塞がってるから食わせて」と彼は続ける。
「もっと?」
「もっと」
 たこ焼きと唐揚げとクレープを食べ終え、ベビーカステラをひとつずつ悟くんの口へと運んでいるのだが、すぐに次を欲しがるため私のところまでなかなか回ってこない。うっすら口を開けて待っている様子が可愛くて、そんな文句も引っ込んでしまうが、うっかりヒナの餌付けみたいだと口走ったら、彼は怒るだろうか。
 お祭りも佳境に入ってきているのか、遠くに小さな花火の光が見えた。少し遅れてパンッパンッという破裂音も立て続けに周囲へと響く。
「あ、カステラ終わっちゃった」
「じゃあお茶取って。蓋も開けて」
「はいはい、ってもう片手空いてるでしょ。自分でして」
 そう突き放したように言ってやると、悟くんはプーっと頬を膨らませた。そして鍛え抜かれた両腕を外側から内へと回し、私を抱き込むようにしてペットボトルを自身の手前の位置へ持ってくる。彼の胸に身体を預けると、耳の近くでパキッと蓋の割れる音がした。
「最後のりんご飴はナマエにあげる」
「いいの?」
「いいよ、十分食ったし。オマエが欲張らないから俺からあげる」
 私にりんご飴の棒切れ握らせた悟くんは、私を脚の上に抱き上げ直して、汗ばむうなじに顔を寄せた。そのあとすぐに、ちゅっと柔らかいものが触れる。
 それっきり彼は何も言わず動かなくなった。汗くさいよとか暑いよとか、それらしい事を言って私が身じろいでも、悟くんは腕の力を緩めてくれない。
 どうしようもなくなった私は、諦めて目の前のりんご飴の紅く染まった飴部分をチロリと舐めた。甘い、甘すぎる。だから主役の果実を齧ったときに、より酸っぱく感じてしまうのだ。
「紅いな」
 彼が私を振り向かせて口づけを落としたのと、私が手に持っていたりんご飴を落としたのは同時だった。

「遅れたお詫び、俺にどんなことしてほしい?七夕だし、ナマエがしてほしいこと、なんでも叶えてやるよ」
 蕩けるようなキスのあと、意地悪な笑みを浮かべながら悟くんは私に訊いた。私はというと、彼によって乱された浴衣の合わせ部分を整えている。
 悟くんの思惑がどうあったのか分からないけれど、私は彼に抱かれたまま、星空をしばらく散歩してもらうことにした。
 欲張らないのではなく、欲張れない。悟くんは本来、私の何光年も先を行くような人だ。だから私は、彼が今この瞬間ここに居てくれるだけでいい。
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