(五条)

「誰、オマエ」
「みゃう」
 多忙の隙間を縫って二週間ぶりに帰宅を許されたナマエの待つ部屋で、疲労困憊の僕を出迎えたのは見知らぬ一匹の白い猫だった。
「ナマエちゃーん」
 靴を脱ぎ、入口正面の廊下でちょこんと前足を揃えて僕を見上げる猫を可憐にスルーし、室内へと進む。すると風呂に入っていたのか、湿った髪のまま彼女は洗面所からひょっこりと顔を出した。
「おかえり、悟」
「ねぇ、あの猫なに?」
 化粧っ気がない火照り顔も可愛らしい。久々に見たナマエの素顔だ。けれども間髪を入れず、僕は恋人に問う。
 すると何の悪気もなく、首に掛けたタオルで髪をドライしながらナマエは答えた。
「先週現場で妙に懐かれて、連れて帰ることにしたの。しつけもなってるし、大人しくて良い子よ」
「どっかの飼い猫だったんじゃないの」
「動物病院へも行ったけど、マイクロチップも埋まっていないみたいだし、ちょっと栄養状態が悪いだけで大きな病気もないってお医者さまが。それなら私が飼っちゃおーって思ってさ。ねー」
「にゃあ」
 いつの間に僕を追い越したのか、猫は部屋の区切りの段差を軽々と飛び越え、ナマエの足元に擦り寄った。そして彼女を見上げながら、回りをスリスリと歩く。
「可愛いねぇ、あったかい部屋行こっか」
 優しい笑みを浮かべた恋人が歩き出すと、言うまでもなく猫もそれに続く。だが二、三歩進んだところで、ナマエは何かを思い出したかのように歩みを止めた。そして同じく立ち止まった猫とともにこちらを振り向き、僕に告げる。
「悟は手洗ってからきてね」
 一人と一匹の背中を見送るうちにパタンと音を立て、無慈悲にも扉が閉まった。その直前、振り返って僅かな隙間から僕を見つめていた猫は、なぜか勝ち誇ったような顔をしていた。……いやいや、自分で言っておいてなんだが、猫にそれほどの知性はないだろう。

 しかしそれが気のせいでなかったと気付いたのは、夜も更けてナマエの手を引いて寝室へ向かってからで。
 ベッドへ彼女を押し倒し、いざ事を始めようとしたその瞬間。僕らから少し離れた場所でスプリングが軋んだ。ナマエと僕、二人の視線が一斉に同じ位置へ向かう。
「「……」」
 当然のように現れた猫は、シーツの上をスタスタと歩きナマエのそばまで近付くと、あくびをひとつしてその場で獣の身体を丸めた。リラックスしきっているのか耳は垂れ、目も閉じられている。
「一緒に寝るの、この数日で癖づいちゃったかな」
 苦笑いしながらも、彼女は穏やか視線を白い毛玉に送る。続けて細長い指を伸ばし背を撫でると、猫はゴロゴロと喉を鳴らした。
 結局その晩僕はナマエを抱くことが出来なかった。



 またとある日。僕はソファーでくつろぎながら、彼女が夕食後の片付けを終えるのを待っていた。
 このあと部屋で映画でも一緒に観ようと誘ったのだが、それを口実にイチャイチャしたい、もといセックスまで持ち込みたいというのが本音である。前回お預けをくらって以来、僕のなかで明らかにナマエが不足していた。
「おまたせ」
「ありがとね」
 エプロンをダイニングチェアに掛けて、なにも知らない僕の愛しい恋人はのんきにやって来る。こちらとら、はやる気持ちを抑えるのに精一杯だ。
「あっ、コーヒーでも淹れようか」
「いや、いい。大丈夫だから」
 僕は首を横に振り、全力で自身のとなりをポンポンと叩く。もう手を伸ばせば届く距離に居るのに、これ以上の待てはさすがに勘弁だ。元来気は長い方ではない。
 少し訝しみながらもナマエは、指示された場所へちょこんと腰掛けた。帰宅した直後は彼女特有の柔らかい匂いがすると思ったのに、こんなに近くに居ても今は部屋と馴染んで分からなくなってしまった。
 よくよく思えば、こういうひと時は本当に久方ぶりである。殺伐とした日常ばかりが続き、さすがの僕も気が滅入りかけていた。
 たまには膝枕でもしてもらおうと思い、頭をこてんと倒そうとしたところ。僕より先にヒョイっとナマエの膝のうえに白いモノ跳び乗った。
 気に食わないので気にしないフリをしつつ、帰宅後何度か視界の端には捉えていたが。無論、白い毛玉のアイツだ。すまし顔も先週より太々しさが増している。
「……ナマエ、ベッド行こ」
 僕は彼女の手を取り、立ち上がるよう促す。このまま引っ張れば簡単に腕のなかに閉じ込めることが出来るのだから、猫への宣戦布告も含んだ最終通告だ。
 不安そうに僕を見上げる焦茶色の目と、明らかに敵意を持ってこちらを睨む僕と同じ青い目を、交互に見つめる。誰がなんと言おうとナマエは僕のものである。飼い猫よりも優先されないなんて、許される訳がない。
「えっと……きゃっ」
「シャーッ!」
 僕が彼女を抱き上げると同時に、猫は見事に膝から滑り落ちた。無限を張り足もとにまとわりつく毛玉を無視して、僕は愛しい恋人を寝室へ運ぶ。無知な猫にはここでのヒエラルキーを教えてやらねばならない。
「悟……」
「うん、ごめんね」
 心にもない謝罪をしたあと、僕は彼女をゆっくりとベッドへ下ろし、額に口づけを落とした。それでも起きあがろうとする身体に対し、肩を押して両手で制するとすぐに諦めたのか力が抜ける。
「ちょっとだけ待っててね」
「っ、ぅん」
 ナマエから顔を上げ、僕の背中に飛びかかり無駄に足掻き続ける小さな獣の首根っこを掴んだ。そして入り口の扉を指差す。
「僕のだからオマエはあっち」
「ニャー!ニャー!」
 白い体毛に青い眼。留守にしがちな僕に似ていたからなおさら連れて帰りたかった、と後から聞いて、彼女と猫には少しだけ悪いことをしたと思った。
 けれどそのときは片腕で小さな身体をひょいと抱き上げ、部屋から閉め出してやった。
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