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人間としての微熱

 つ、といつもの、痛みとも痒みとも言い難いような、あの奇妙な違和感を覚えて桐山はぴたり足を止める。左のこめかみ、その少しだけ、後方。反射的に触れた指先は彼のオールバックの髪をさらりと撫で付け、次には拍子にずり落ちたデイパックの肩紐をかけ直し、ぶらりと重力に従い降りてゆく。
 何度目になるだろうかーーー。少しだけ後方を振り返りながら桐山は、この半日間の記憶ーー正確には十四時間、だ。彼があの分校を出発してから今に至るまでーーを思い起こした。眼下の谷底にはたった今絶命したばかりの月岡彰の体が転がっている。生死確認など行ってはいないが彰が死んでいるのは明らかだ。胴体と頭部が切り離された生物が死ぬことなど幼稚園児でも知っている知識である。そしてそこに桐山和雄の学んだ知識を付け加えれば、こうなる。中世ヨーロッパの斬首刑において、切断後暫くは切り離された首に意識を確認できたという記録は確かに残っている。ということは可能性として、今この瞬間まだ彰が生きている、と考える根拠は十分に存在する。しかしそんなことは全くもって、今の彼にとっては関心のないことだった。月岡彰がたとえ今、もしも微かな意識を保っていたとして、それも長くとも数十秒で消失することは決まっている。頭部の切断からまさか、生還にまで至ることなどこれまでの記録からも、そして人体の構造からも有り得ないのだ。
 そして事実桐山和雄は、その眼下に映り込んだ彰の体になどなんの気も留めなかった。ただこの半日間を振り返り、頻度の高さに首を傾げる。今までと比べて明らかに多かった。何が、といえばあの、こめかみの奥につ、と走る奇妙な感覚の現れるその回数、だ。彼の記憶に残る限りこの感覚は年に数回、場合によっては年に一度現れるか現れないか、その程度のもののはずだった。それが昨夜このプログラムが始まって以来、もう四度目である。明らかに頻度が上がっている。そもそもこの感覚の正体がわからない以上原因を突き止めることなど不可能なのだが、もしかしたら彼はそれを不愉快だと感じたのかもしれない。いや、そんなこともなくもしかしたら 、次の標的も特に見当たらない今何かの暇潰しに、それについて考えてみてもいいと、そう思ったのかもしれない。とにかく彼は、昨夜の3時過ぎ、島の南端での情景をゆっくりと思い浮かべ始めた。



 ーーーね、お花って可愛いでしょう?わかる?桐山くん


 ぞくぞくと激しく響いた違和感に桐山はきゅっと眉を歪める。これで五回目、だ。そしてそれよりも今、あの島の南端での情景を思い起こそうとしたのにも関わらず何故いつかの教室での会話が頭に浮かび上がったのか。
 金井泉の声だった。3年のクラス替えの後間もなく、ちょっとした気まぐれで朝早く登校してみた日に出会った、金井泉との会話の一部。そういえば泉とは、桐山が分校を出発してから一番始めに出会った生徒だった。脅えきった様子で海を眺めてうずくまっていて、桐山の姿を見るなり目を見開き、逃げ出そうと足を走らせた。そうだ、最初にあの違和感が起こったのはあの時だった。思い付いて桐山は少し、教室での金井泉との会話へと思いを巡らせることを決めた。





 時計の針の示す時刻は七時五十分。始業時刻は八時半なので、教室にはまだ他の生徒の姿はなかった。野球部は朝練があるので同じクラスの旗上忠勝らは既に登校してグラウンドでバットを振っていたのだが、そんなことは桐山の知るところではなかった。
 朝の光が差し込む教室の中で、桐山は自らの席につくと鞄から読みかけの本を取り出した。カントの純粋理性批判。父の書斎にあった本を抜き出してきたものだが、確かに噂通り難解な書物だった。執筆者のカント自身己の学説に時折迷い込んでいる節が見える。しかし人間の理性とはなんたるかを解き明かして理性に捉えうる範疇を分析しようというその試みは確かに、興味深かった。否、興味深いような気もする、というのが正しい表現なのかもしれない。例えば彼の手元からこっそりこの本を奪い取ることに成功したとして、桐山和雄は決して苦労してまで探すことなどせずまた次の本へと手を伸ばすだろう。全くその程度の興味、ではあった。
 しかしまあ最低限には彼の興味を惹き付けたその本へと意識を集中させ、数ページ、紙を捲ったところだった。背後でガラリと引き戸の開かれる音が響き、桐山は体を振り向かせる。丁度彼の真後ろ、教室の後方の扉から顔を覗かせたのは金井泉だった。

「き……りやまくん?」

 どこか上ずった声に表れるのは困惑と、そして恐らくはある種の恐怖。恐怖、という感情そのものについては桐山には理解できなかったが、しかしこの学校の殆どの生徒、否、教師も含め大多数が不良グループの頂点に属する自身に恐怖を抱いていることは事実として知っている。

「お、おはよう。今日は早いんだね」

 顔は桐山の方に向けながら、その視線は横の方へと泳いでゆく。目を合わせることはなくそれでもにこりと微笑んで、泉は教室の中へと足を踏み入れた。またガラガラと音を立てて扉を閉め、後方中央の辺りまで歩むと足を止める。泉はもうこちらを窺う素振りすら見せなかったが、桐山は彼女の一挙手一投足をまじまじと眺めていた。
 ロッカーの上に並べられた鉢植えをひとつひとつ覗き込む姿。表面の土に触れて乾き具合を確かめる。少し申し訳なさそうに眉尻を下げながら、枯れかけの葉を数枚千切る。

「金井は」

 びくり、と泉の肩が震えた。恐る恐ると言った調子で振り返り、今度はしっかりと桐山の方へと視線が合わせられる。

「悪い。驚かせるつもりじゃなかった」
「えっ……?」

 また、困惑の表情。数回まばたきを繰り返すと泉は息を漏らすように笑った。

「ううん、私こそ、ごめんね。まさか桐山くんが話しかけてくれるなんて思わなくて。それで、何かな?」

 体の前側で組まれた両手がぷるぷると震えていることから、泉がまだ自分に恐怖を感じていることは見てとれた。それをごまかすように必死に口角を上げている。
 そういえば、クラスの女子とこういった不要な会話をするのは初めてだった。金井泉というこの、いかにも育ちの良さそうなお嬢様と少し話してみるのもいいかもしれない。そんな風に彼が思ったのかどうか、それは決して定かではない。しかし何にせよ桐山は、最初に問いかけようとしたそれを改めて口に出した。

「金井はいつも、この時間に登校してるのか」

 ぱちりぱちり。瞬きが繰り返され、長い睫毛が揺れる。

「あ、うん。お花に水あげるためにね。この教室の子達と、あとそれからそこの下、校舎の入口に花壇があるでしょ。そこにも、毎朝」

 校舎入口の花壇。別段それに気を留めたことはなかったが、そこに花が咲いていることには気付いていた。春夏秋冬、季節ごとに変わる色とりどりの花たち。それを世話していたのはどうやら、今目の前にいるこの金井泉だったらしい。

「……園芸委員だったか?」

 浮かんだ疑問を口にすれば泉は、首を横に振る。両手の震えは少しずつ、収まってきているようだった。

「別にそういう訳じゃないんだけど、お花、可愛いでしょう?だからお世話したくって、管理人さんにお願いしてやらせてもらってるの」
「……可愛い?」
「うん。今だとチューリップがね、赤白黄色、並んでてとっても可愛いよ」
「よく、解らないな」

 可愛い、だとか綺麗、だとか、そういった表現が一番、桐山にとっては理解しがたいものだった。重い軽い、大きい小さい等の形容詞ならある程度基点を定めて、それを越えれば重い、大きい、下回れば軽い、小さい、と定めることができる。対してなんの法則性も見られないそれらの言葉について彼は全く、理解する手掛かりを掴めなかった。
 泉は顔を俯かせ、言葉を詰まらせている。落胆か、これまた困惑、か。暫くその様子を眺めていると、やがて何かを思い付いたといった調子で顔を上げた。ぱぁ、と効果音のつきそうな明るい笑顔。その瞬間桐山のこめかみの奥にあの、不可解な感覚が沸き起こった。

「もしよかったら下の花壇、一緒に水やりしない?」
「水やり、か」
「……あっ、嫌だったら、全然……あのっごめんね。本読んでたんだよね」
「いや、いい。行こう」

 ガタン、と椅子を引いて立ち上がった桐山を泉はポカンとだらしなく口を開けて見上げる。やがて顔全体を綻ばせ、とても嬉しそうに、笑った。こういったものを綺麗だというのだろうかと、少しだけ浮かび上がりかけた思いはこめかみに走った違和感にかき消され、沈んでいった。



 ーーー嬉しい。桐山くんってもっと怖い人だと思ってたから


 ーーーほら見て。手をかけたら手をかけたぶん、お花は綺麗に咲いてくれるの


 ーーーね、お花って可愛いでしょう?わかる?桐山くん





 たった一度だけ。その日限りの繋がりだった。段々と生徒たちが登校してきて教室に人が埋まり始めた頃には桐山はもう席についてまた持参した本の上の文字に意識を落としていた。翌日以降はいつも通りに始業時刻の十分前に登校するようになり、彼と泉が口をきく機会はもう、訪れなかった。
 そしてついに訪れたその瞬間、泉は全身余すところなく、溢れ出た拒絶の意思を桐山に投げつけた。充血し見開かれた両の瞳。ガタガタと震える両肩に腕。その先両手でしっかりと握りしめられたのは灰皿。(背後から頭を殴り付ければ相手を昏倒させることはできそうな、重量感のあるものだ。恐らくあれが泉の支給武器だったのだろう)その姿全てから、あの朝には必死に控えめに、抑えられていた桐山に対する恐怖と拒絶の念が溢れ出て桐山を包み込んだ。
 泉の両眼を真っ直ぐに見つめ、直後駆け出した彼女の背中を眺めながら彼は、こめかみの奥の違和感を抑え込んでコインを投げた。表が出れば政府の連中と戦う。そして裏が出れば、このゲームに乗る、と決めて。




 両手の平を、開いて、閉じる。また開いて、閉じる。眺めていればあの瞬間の、泉の細い首をバタフライナイフで刺し貫いた感触が甦る。またこめかみの奥が、つ、と疼いた。
 投げられたコインの面は、裏側を主張して砂浜へと着地した。そしてその瞬間、この島には一体の殺戮兵器が産み落とされたのだ。
 桐山和雄という一切の感情を有さないその男が、時折感じていた僅かな違和感。それが、彼の中のどこかで発生した感情の揺れのような小さな波が上手く発現することを許されずに押し潰される、その際に現れるものであるという真実に彼が突き当たることは決してないだろう。そしてまた、もしも金井泉がプログラムの恐怖に押し潰されることなく桐山和雄を受け入れることができたならば、全く違った結末が用意されていたかもしれないという小さな可能性も、全ては誰にも知られることなく消えてゆく。

 暇潰しは終わった。桐山はもう一度谷底に転がった月岡彰の首のない体を見下ろして、ゆっくりと立ち上がった。夕方六時の放送を終え、残っているクラスメートは二十一人。その全てを葬り去り最後の一人となる瞬間、もしくは誰か桐山に対抗しうる生徒によって彼の生命の活動に終止符が打たれるその瞬間。そのどちらかが訪れるまで、殺戮兵器は止まらない。



title by すてき

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