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 ミーンミンミン、と喧しく鳴き喚く蝉の声に、子ども達の歓声が混じる。ちらりと壁にかけてある時計に目をやると、短針がぴったりと三を指し、長針は十二を過ぎて動き始めたところだった。近所の小学生達の、下校時刻。特にこの夏の間は、蝉の声に混ざり合う幼い声が、東京の外れのこの市街地の風物詩となっていた。
 光子はずり落ちていたキャミソールの肩紐を整え、ベランダへと足を運ぶ。ついでに枕元から煙草の箱を持ち上げて、ジュ、と火を付けると深く煙を吸い込んだ。
 丁度すぐ下の道路を四人の小学生が歩いているところだった。見た目から学年は三、四年生くらいか。そのうち三人はなんの荷物も持たない身軽な格好で、一人の少年が四つのランドセルを抱えて、汗だくになりながらよたよたと歩いていた。
 荷物持ちのじゃんけんに負けたのか、はたまた常にそういった役回りなのか、状況は定かではないが何にせよこの炎天下の中理不尽な荷物を持たされているにも関わらず、その少年はにこにこと頭の悪そうな笑顔を浮かべていた。

ーーー馬鹿みたい

 煙草の煙を吐き出しながら、光子は心の中で悪態をついた。しかしその思いとは裏腹に、胸の奥にはじんわりと懐かしい思い出が甦ってきていた。

 滝口くんに、よく似ている。
 それは光子が中学三年生の時のクラスメートで、一年間同じ教室で授業を受けていたにも関わらず会話を交わしたことなど片手に収まるほどの回数で、本来であれば卒業した後にはきれいさっぱり忘れ去られるはずの、そんな地味な男の子だった。






「相馬さん、今日の放課後、少しだけ、いいかな」

 それはもう卒業式を間近に控えた、三月のある日の昼休みだった。四限の終了のチャイムが鳴り国語の教師が教室から出て行くや否や、意を決した表情で滝口優一郎は光子の元へと歩み寄ってきた。
 うわ、あいつまじでやりやがった。滝口いけー!と、男子達が小さな声で囃し立てる。数日前にクラスの男子達の中で何らかのゲームが行われ、それで最下位になった滝口に、不良の相馬に告白する、という罰ゲームが課されたことを光子は知っていた。
 唇を噛み締めてぷるぷると震える滝口を見つめ、光子はふっと笑う。あらあら、可哀想に。

「いいわよ、何の話?」

 今日の放課後は特に予定もなく、とりあえず比呂乃と好美と繁華街をぶらつこうと言っていたのだ。それよりは余程、こちらの方が楽しそうだ。
 にっこりと笑って強ばった滝口の顔に手を伸ばすと、滝口は顔を真っ赤にして固まってしまった。

「あっ、ごめんね」

 慌てて手を引っ込める素振りを見せると、滝口も顔中を真っ赤に染め上げたまま、大きな声で口を開く。

「いや、あの、ありがとう!じゃあ、また、放課後に!」

 たまにはこんなオタク少年で遊んでみるのも楽しいのかもしれない。さて、どれくらいこっぴどく振って、純粋な少年の胸に消えない傷を刻み付けてやろうか。考えるだけで唇の端が上がってきそうだ。これは、午後の授業も退屈せずに考えるべきテーマを手に入れた。
 天使のような笑顔の下に小悪魔の企みを抱えながら、光子はわくわくと胸を踊らせていた。

 三月の半ばに差し掛かり、一番寒い時期は脱したとはいえまだまだ気温は低い。図書室の一番端、しっかりと太陽の光が差し込む陽当たりの良い席でファッション雑誌を眺めながら、光子はちらりと壁の時計へと目をやった。
 放課後になってすぐに話をするのかと思えば、掃除当番と委員会があるから、もう少し待って欲しいと至極申し訳なさそうに滝口に謝られた。掃除当番も委員会も、光子にとっては全く馴染みのなかった響きで、そんなことで待たされるのは少々不快ではあった。けれど一方でその段取りの悪さはいつも付き合っている連中からすると有り得ないことに思われ、ある種の新鮮さを感じていたのも事実だった。
 周りを見渡せば、図書室の席はまばらに埋まって、静かに本を読んでいる生徒や勉強をしている生徒の姿が見える。窓の外では運動場で野球部、サッカー部、陸上部の面々がそれぞれのウェアを着て走り回っている。姿は見えないが校舎中から、吹奏楽部のトランペットやトロンボーンの音階練習の音が鳴り響いている。他の生徒が放課後をこんな風に過ごしていたことも、卒業間近のこの瞬間まで光子は、ちっとも知らなかった。

「ごめん、相馬さん、お待たせ」

 少しずつ太陽が西に傾き始め、辺りがオレンジ色に染まり始めた頃、滝口優一郎はようやく姿を見せた。六限の授業が終わってからたっぷり二時間は、光子が待たされた形になっていた。

「ごめんね、待たせちゃって。じゃあ、帰ろっか」

 "告白"という響きから光子が考えていたものからすると、その日の滝口との会話は拍子抜けするほどに 下らない、他愛もないものばかりだった。公園につれていかれたかと思えば、近頃滝口が可愛がっているという野良猫を見せられ、滑り台の上に登ってみろと言われて従ってみれば、ここから見える夕日が綺麗なんだと眺めされられた。考えれば考えるほど光子は、何故その日自分が素直に最後まで滝口と一緒に時間を過ごしたのか、納得のいく答えを見つけることができなかった。ただ強いて言えば、クラスで瀬戸豊に次ぐ低身長の男子で、大人しく弱々しく、簡単にはねのけることのできそうな非力な滝口の、しかし素直で真っ直ぐな瞳は有無を言わさぬ力を有していたような気がした。

「用事って、これだけ?」

 地平線の下へと潜り込んだ太陽の名残を見つめながら、隣に座る滝口へと光子は問いかけた。滝口は少し気まずそうに、体育座りをした膝の上に乗せた頭をぼりぼりとむしる。

「本当はさ、旗上とか、クラスの男子でやったゲームに負けて、罰ゲームで、女の子に告白しろって言われてたんだ」
「うん、知ってる」
「誰かに告白するって言うのなら、俺、相馬さんがいいなと思って声をかけたんだけど」
「どうして?」

 相馬光子に告白する、そこまでが定められた罰ゲームなのだと光子は思っていた。相手が決められていなかったのであれば、滝口が光子を選ぶ理由などないはずだ。自分はクラス全員から嫌われている不良で、滝口はクラスでも存在感のないオタク少年。二年間同じ教室で授業を受けてきて、会話を交わしたことなどほとんどないに等しかった。

「だって、相馬さんとっても綺麗だから。もう卒業しちゃうし、その前に少しくらい、話してみたいなと思ってたんだ」

 真っ直ぐに光子の顔を見てはこなかった。恥ずかしそうに、口をもごもごと動かしながら、けれどとても素直な瞳で滝口は笑う。

「でもさ、罰ゲームで告白なんてそんなの、相馬さんに失礼だし、大体、俺なんかが相馬さんに告白するっていうのも、なんか違うと思ったんだよね」
「そうなの?」
「うん、あの、俺は、確かに、相馬さんのこと……好きなんだけどさ、でも別に付き合いたいとかそういうんじゃなくて」

 相変わらず視線は合わせないままに、滝口は滑り台の上に溜まった砂粒を指先で集めている。一通り辺りの砂を触り尽くしたかというところで、ようやく顔を上げた。

「俺さ、ただ相馬さんに幸せになってほしいんだ。それで、でも、卒業する前に一度くらい、ゆっくり話したいなってそれだけで。だからほんとに今日、付き合ってくれてありがとう」
「私が怖くないの?」

 光子の口から自然に言葉が漏れていた。滝口はにっこりと笑う。

「怖くないよ。相馬さんはきっと、優しい人だよ」

 さっき猫を見てる目がとても優しかったから。
 付け加えられたその言葉に、光子はきゅっと胸が締め付けられるような気がした。辺りはすっかりと、夜の闇に包まれていた。


 滝口とまともに会話を交わしたのは、後にも先にもそれが最後だった。卒業式の日にちらりと挨拶を交わし別れた後、光子は一度も同窓会にも顔を出していないし、滝口の姿すら見ていない。それでもそのたった一日の滝口と過ごした時間は、光子の胸にいつまでも深く深く刻み込まれていた。

じゃんけんぽん!あいこでしょ!

 道端からは小学生のはしゃぎ声が聞こえてくる。また同じ少年が負けたらしい。
 四人分の荷物を抱えた少年は、やはり汗だくで笑いながら、楽しそうに道を歩いていた。


title by 反転コンタクトレンズ

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