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 その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、弘樹は刹那の間に六十年の時を遡り、地元である香川県での中学校の教室風景をありありと脳裏に思い描いた。真っ白な寝具、簡素な病人用のベッド、少しくすんだ白い壁にクリーム色のカーテン、窓際に配置されたテーブルと椅子も明らかに一般用のものではなく、視界に入る景色は確かに入院患者の個別病室であるはずなのに、そのベッドの中でしゃきりと背筋を伸ばしこちらを見つめる貴子の姿は中学生の頃退屈そうに、けれど真面目に授業を受けてノートを取っていたあの頃から少しも変わっていなかった。

「遠いところわざわざありがとう、弘樹」

 少ししわがれて掠れたその声は、しかし凛と響いて弘樹の鼓膜を揺らし、馴染み込んだ。

「いや……久しぶりだな、貴子。驚いたよ」
「驚くほどの年でもないでしょ。もういつ迎えが来たって、おかしくないわよ」

 末期の膵臓癌でもう手の施しようがないこと、持ってあと3ヶ月だということを貴子は淡々と語る。全く厭になるわよね、と自嘲気味に笑った。

「うちの家系は癌の血筋じゃないのよ。アイツ、こんなところでまで私を引きずろうとして」

 どこか遠いところを見つめるような彼女の瞳は、優しさに満ちていた。
 二十代の半ばで結婚し、約五十年を連れ添った貴子の夫がこの世を去ったのは、五年前のことだった。直接の死因は今の貴子と同じ、膵臓の悪性腫瘍だった。
 「この人と結婚しようと思ってるの」まだ社会人になって数ヶ月だった貴子が学生時代の後輩だというその男を連れてきたとき、意外だな、と思ったのを弘樹はよく覚えている。貴子のような女であれば結婚相手にはもっと、しゃきりと胸を張ったいかにもというエリートな男を選ぶものだと思っていた。それは弘樹の勝手な想像ではなく、事実高校時代も大学時代も、貴子は誰もが羨むような理想的な男ばかりと付き合ってきた。
 それなのにその日貴子に腕を引かれて現れた、オドオドと視線を泳がせる小柄な男は、貴子の隣にいるとまるで凛と座る大型犬の横でそわそわと落ち着かないチワワのように見えた。大学卒業を期に髪をばっさりとボブに切り落とした貴子は殊更に大人の魅力が増しており、その二人の姿のあまりのアンバランスさに思わず弘樹は苦笑いを漏らした。

「千草さん、入りますよ」

 コンコン、と部屋の扉がノックされ、引き戸が横に開かれる。体温を測りに来ました、と体温計を差し出した若い看護師は、貴子の顔を見ると口を尖らせた。

「あっ、千草さん、またお化粧してますね!入院中はお化粧は禁止だって何回言ったらわかるんですか」
「悪いわね。少しくらい大目に見て頂戴。七十年来の幼馴染が、わざわざ遠方から来てくれてるのよ。綺麗にして出迎えなきゃ、失礼でしょう」

 受け取った体温計を脇の下に挟みながら、貴子は笑う。真っ赤な口紅が塗られた唇の両側にほうれい線が深く刻まれた。

「仕方ないですねぇ。それにしても、千草さんは本当に美意識が高くて尊敬しちゃいます。あたしなんて普段からろくに化粧もしなくって」
「あら、化粧は身嗜みの基本よ。それに、見かけを作ることで自分自身の気持ちが引き締まるのよ」

 ピピピッ、と電子音が鳴り、貴子は体温計を脇の下から取り出す。恥ずかしそうに笑いながら、看護師は体温計を受けとり、手元のボードに数値を書き込んだ。

「じゃまた、点滴が切れたら呼んでくださいね。お邪魔しました」

 ガラガラと引き戸の閉まる音がして部屋の中には再び静寂が訪れた。
 貴子は少しはだけたワイシャツの襟元をぴしりと正す。指先では真っ赤なネイルが強く主張していた。
 どんなに教師達に目をつけられても、たまにチクリと小言を言われても、決して自分を曲げずに好きなファッションを貫いたあの少女の姿が弘樹の目の前にはありありと思い出された。

「あの子、ね」

 目の前の貴子が声を発する。遠い遠い記憶の貴子と、重なっては消えてゆく。

「あんな風に飾りっけのない子でね、うるさいんだけど、良い子なのよ」

 慈しむように笑う貴子の切れ長の瞳の、目尻の皺が深くなる。もっと昔はツンツンと気が強くて、こんな優しい表情を浮かべることはなかった気がする。けれどいつからか、あの頼りない夫と結婚して、子供を育てて、家族を眺める貴子の目は柔らかさを有していった。

「なあ、貴子」
「何?」
「今、やりたいこととか、あるのか?」
「ないわよ」

 ぴしゃりと、貴子は言い切った。鋭い瞳があまりにも彼女らしく、思わず弘樹は目を細める。

「やるべきことは全部やったわ。息子達を生んで育てて、仕事だって定年まで働いたし息子達は成人して結婚して、孫もある程度まで成長を見てこられたし、もうこれ以上望むものなんて何もないわよ」
「そうか、貴子らしいな」
「そうね、でもひとつだけ」

 弘樹とゆっくり話したいわ。だから呼んだの。そう言って貴子は、にっこりと笑った。また、弘樹の脳裏に少女の姿が浮かんだ。

 弘樹は貴子と、時間を忘れて言葉を交わした。定年まで勤めあげた会社で残した業績の話だとか、最後まで貴子には頭が上がらず、けれど地震で家が半壊した際には身を呈して家族を守ろうとした夫の話だとか、結婚をして子供もできた後に会社を辞めて起業すると言い出した長男に頭を抱えさせられた話だとか、それはどれも、弘樹にとっては何度も何度も繰り返し聞いたことのある話だった。
 けれどその時間は二人にとって互いに、掛けがえのない心地よさに包まれたものだった。そこから何が生まれるでもない、ただただ、これまでの互いの記憶をなぞって擦り合わせるだけの時間。
 時には腹立たしげに怒気の混じった声で、時には本当に楽しそうに腹を抱えて、貴子は少女のようにころころと表情を変えた。そして弘樹は貴子の体を支え、彼女の感情の波を大きく包み込んだ。

「あぁ、楽しかった」

 熱を込めて話し過ぎたのか、貴子の化粧は少し、崩れ始めてきていた。目の下の窪みが隠しきれない加齢と衰弱を表している。それでも貴子は、綺麗だった。少なくとも弘樹にとってはいつどんな時だって、貴子は世界で一番かっこいい女だった。

「ありがとうね、弘樹」
「いや、俺の方こそ、楽しかった。ありがとう」

 爪先が赤く塗られた貴子の右腕を、弘樹はぎゅっと握りしめた。骨ばって血管の浮き上がったその腕は、ベッドシーツと変わらないくらいに、真っ白だった。


 「次に会う時は私のお葬式よ」貴子の言葉を思い返し、弘樹はくつくつと笑う。これから先、見る間に彼女は衰弱していくらしい。五年前に同じ病気で夫を見送った彼女が、誰よりもその変遷は理解している。その上で貴子は、二度と見舞いには来るなと弘樹に言い切った。
 弱っていく自分の姿を、美しく飾ることのできなくなる自分の姿を家族以外の人間には見られたくないのだと言う。本当に彼女は、昔から変わらない。優しさや柔らかさを少しずつその身に纏い、変わったように見せかけて根っこの頑固さやプライドの高さは、何も変わらないのだ。

 夕陽が眩しいーーーオレンジ色に辺りを染め上げる太陽の光に、弘樹はぎゅっと目蓋を瞑る。頭の奥にはまた、貴子の姿が浮かんでいた。
 夕焼けの中、グラウンドに膝をついてマネージャーの合図で素早く走り始める。鍛え上げられた太腿とふくらはぎの筋肉が波打ち、前へ、前へと足を運ばせる。所々メッシュの入った長いストレートの髪が風に泳いだ。
 弘樹の思い出を彩る存在が、一人また一人と旅だってゆく。自分の順番は、いつになるのだろうかーーー。目蓋を開き、弘樹は、目尻に浮かんだ温い液体をそっと拭った。


title by 反転コンタクトレンズ

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