ジェーンは弾き語り動画を主に投稿するクリエイターなんだ。彼女はシティポップやローファイ、様々なジャンルの曲を歌うんだけど、その中でも俺は特に先月投稿されたこの曲が好きでさ。お姉さん知ってる?
そう楽しそうに語るお客様を前に私は苦笑いした。何せ、そのジェーンと呼ばれる存在は私であるからだ。
いわゆる異世界転移と呼ばれる事象に私が遭遇したのは、つい半年前になる。いつも通りの帰り道を歩いていたら見知らぬ街に居たのだ。言語はわかる。文字も読めるし書ける。しかしながら、あきらかに別の世界と言わざるを得ない光景に私は引きつった笑みがこぼれた。
そこからは紆余曲折あったが、縁あって現在働いているカフェで雇ってもらう事が出来た。身元不明の怪しい人間であるからどこのお店に面談に行っても門前払いだったのに、このカフェのオーナーは二つ返事で頷いてくれた。そのおかげでなんとか今日まで生きてこれたのだ。
「ねぇ、もうすぐ退勤の時間でしょ?早く帰る準備して」
「おやイヴちゃん。お姉ちゃんを引き留めてごめんね」
「そう思うのなら、私のお姉ちゃんに話しかけるのをやめてくれない?」
その刺々しい言葉にも「お姉ちゃんのことが本当に好きなんだねぇ」と温かい目で見守ってくれるこのお客様はとても懐の広い方だと思う。
彼女はイヴ……というのは私に合わせた偽名で、本名は銀狼ちゃんと言う。訳あって外では本名で呼べないのでここではイヴと名乗っている。服装も普段とは違うカジュアルな装いだ。
「アハハ、妹がすみません。それでは私はこれで失礼しますね」
「五分で戻って来てね」
五分は難しいかなぁと思いながら、出来る限り急いで帰り支度をする。カフェから出ると、彼女は壁に凭れてスマホをいじっていた。私が出てきたことに気づくとスマホを仕舞いこちらへ歩いてくる。
「今日の晩御飯は何?」
「鶏の照り焼きにしようかなと思ってるんだけど」
「良いんじゃない?」
お気に召したようで何よりだ。そのまま、私たちは取り留めのない話をしながら帰路に着いた。アパートの階段を上り部屋の鍵を開ける。この部屋に帰るたびに、ただいま、と言うのは中々慣れないなぁと思う。
銀狼ちゃんは迷いの無い足取りで部屋に上がる。私よりもこの家に詳しそうな貫禄があって、それもまた不思議な気持ちになる。
そもそも、何故私が銀狼ちゃんにお姉ちゃんと呼ばれているのか。それも未だによくわかっていない。彼女との出会いは唐突だった。
「あなたがジェーン?」
振り返ると一人の少女が立っていた。その日は雨が降っていて、いつもより視界が悪かった。急いで帰らなければと足を進めた矢先、雨のはねる音に紛れてそう問いかけられたのだ。
驚いて声を出せない私を観察するようにじっと眺め、そうして何かに納得したのかこちらに歩いてくる。傘と傘がぶつからない距離まで近づいてきた彼女はおもむろに私の手を取った。
「帰ろう、お姉ちゃん」
流石に私も驚いた。既に異世界なんて突拍子のない場所にいるのにこれ以上驚くことがあるのかと思っていたのだが、理解の範疇を越えた事象は取り残されてしまった私の思考なんてお構いなしに押し寄せてくる。
そのまま流されて今に至る。というとあまりにも私が情けない人間のように思うが、それは彼女が人との距離感を掴むのに長けていたから仕方のない事なのだと誰にともなく弁解したい。
いつのまにか私の生活にスルリと入って来て、隣に居るのが当たり前になった。本当なら恐れるべきことだし、不快感を抱いても可笑しくないのに今日もまた彼女は当たり前の顔をして私の隣にいる。
「ん、おいしい。あなたの作る料理はどれも好き」
「お口に合ってよかった」
「毎日食べたいくらいなんだけど」
「毎日かぁ。毎日は銀狼ちゃん、私の家に来れないんじゃない?」
詳しくは知らないが、彼女はいつも忙しいようだ。それなのにこうして隙間時間を見つけては私に会いに来る。無理に来なくても良いと思うのだが、それを告げると拗ねてしまうので口には出さないようにしている。
「だから私のセーフハウスに住めば良いっていつも言ってるじゃん」
「それは、えーと、う〜ん……」
「何が不満なの?」
不満、と言うよりは不安しかない。おそらく私より年下であろう彼女の言うセーフハウスとはいったい何なのか。危険な仕事はしていない……と願っている。実はお金持ちのお嬢様だったりするのだろうか。
「お話は嬉しいんだけどね、通勤時間を考えると……」
「私のセーフハウス、防音室もあるし機材も一通り揃ってる」
「ウッ、いや、でも、やっぱり銀狼ちゃんの家からだとカフェで働けなくなっちゃうよ」
「あなた一人くらい養えるけど」
暗に仕事を辞めろ、という銀狼ちゃんに恐れおののいた。私の中でもう一度銀狼ちゃんお嬢様説が浮上する。年下の女の子に養われるのは色々と不味いので丁重にお断りした。
「いったい何が駄目なのか私にはサッパリわからない。社会の目?大人としての立場?そんなものが一体なんの枷になるの?」
「ん〜とね。理由は色々あるけど、一番はやっぱり申し訳ないからかなぁ」
彼女の目が、私をみつめる。まるで私のすべてを見透かすようなその瞳に居心地が悪くなって視線を彷徨わせてしまう。
「はぁ、まあ別にいいけど。それじゃあ代わりに今日もあなたの歌を聴かせて」
「それならもちろん、聴いてくれる人がいると私も嬉しい」
「あとは抱き枕にもなってね」
そう言うと、食事を終えた銀狼ちゃんは食器をキッチンに持っていく。洗い物は私がするので先にお風呂に入ってもらった。
私も少し遅れて食器を運び洗い物をする。今日は何を歌おうか。私が歌う曲は元居た世界での有名な曲が多い。ひょんなことからカフェのオーナーに譲ってもらったアコースティックギターを抱えて歌を口ずさむようになったのはこの世界に来て二か月ほど経った頃だった。
それは過去を懐かしむ行為でもあるし、もしかしたらこの曲を知っている人がどこかに居るかもしれないという希望に縋ったものでもあった。
街中で弾き語りをする勇気は無かったので、この世界にも普及しているスマホを使って動画を撮影した。顔は映さない。部屋に置いてある机とマグカップの映像に私の声を乗せて世界に公開した。
もし、どこかにいる誰かが。この曲を知っている、そんな誰かが現れる日が来るのを夢見ていた。帰る方法が分からなくてもいい。ただ、一緒にこの曲の思い出を分かち合えたらそれで良かったのだ。
「お風呂あがった」
「おかえり、それじゃあ私も入ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
銀狼ちゃんと交代して私もお風呂に入る。今日一日の疲れを全部洗い流してくれるような気持ちになるから私はお風呂に入るのが好きだ。後に誰が入る心配も無いので長めにお湯に浸かってから上がる。お湯を抜き、掃除をして、それから銀狼ちゃんのいるリビングへと向かった。
「何してるの?」
「虫が居たから外に捨てた」
「え!?刺されてない!?」
「刺すタイプじゃないから大丈夫」
彼女に怪我が無いようでホッとした。私は虫が得意ではないので外に逃がしてくれてとても助かった。ありがとう、とお礼を言ってからギターを取りに向かう。
「今日は動画撮るの?」
「ううん、撮らないよ」
「それじゃあ、私のために歌ってくれるってこと?」
「そうなるねぇ」
嬉しそうにする銀狼ちゃんを見て私も釣られて笑顔になる。私の歌でこんなに喜んでくれる人がいるなんて、気恥ずかしいけれどやっぱり嬉しくなる。
「あなたの声は好きだけど、歌になるともっと好き。眠るのにぴったり」
「眠るのに……?」
「うん。穏やかで、あたたかくて、安心する」
「そっか。それじゃあ眠りたい夜にぴったりの曲にしようか」
彼女が何故私の元にやってくるのかはわからない。それでも、私が彼女に救われているのは紛れもない事実だ。
◆
逃げる、にげる。私はただひたすらに走っていた。今日もいつも通り仕事を終え、何の変わり無く帰宅していた。今日は銀狼ちゃんいないから寂しいな、なんて思いながら歩いていると後ろから気配を感じた。
最初は同じ方向に向かっているだけだろうと思っていたのだが、いつまで経っても一定の距離を保ったままだった。もしかして着けられてる……?いや、そんなまさか。
普段と違う道に逸れて遠回りをしたが、それでも、後ろにいる人物は一定の距離を保ったままだ。私は怖くなって走り出した。
たまたま同じルートを歩いているだけの人だったら勘違いして走り出しちゃってごめんなさい!そう考えながら走っていると背後の人物も走り出す。勘違いじゃなかった!私は怖くなって懸命に足を動かすけど何処へ逃げればいいかもわからない。
当てもなく走って、そうして、手首を捕まれる。私はバランスを崩して倒れ込みそうになったが、後ろに居た人物に抱きしめられる。ゾッと全身に冷たいものが走った。
「やっと捕まえた、やっと、やっと、ハハッ、俺の、おれのだ」
「ひっ、は、離してください!」
なんとか抜け出そうと藻掻くが圧倒的な力の差に叶わない。私は溢れそうな涙をこらえて何か逃げ出す方法は無いかと思考を回転させる。
「俺は見たんだ。アンタが突然街中に現れたのを。きっと、アンタは女神様なんだろ?俺を救ってくれる、そうだ、そうに違いない」
「何、言って……」
どうやらこの男の人は私がこの世界に来た瞬間を見たらしい。だけど、残念ながら私は女神ではないし彼を救うなんてそんな大層な事は出来ない。
「俺はずっと見てたんだ。だから知ってる。アンタの歌声も、夜に一人で泣いている事も。女神だけど、俺を救うだけじゃなく、俺は女神を救うことが出来る。きっと、俺たちが愛し合うためにアンタは現界したんだ」
そうに違いない。虚ろな声でそう呟き続ける男に身の危険を感じる。急いでこの場から逃げなければと暴れるが中々離してくれない。
「どうして暴れるんだ、そうか、恥ずかしいのか。恥ずかしがる必要なんて無いのに」
「ちが、そんなんじゃ、はなして」
「なにしてるの?」
第三者の介入に動きが止まる。聞きなれた声。声の方に視線を向ければ、そこには苛立った顔をした銀狼ちゃんがいた。
「銀狼ちゃん!危ないから逃げて!」
「お前を知ってるぞ、女神に害を為す愚か者め」
「はぁ……」
銀狼ちゃんはため息を吐くとそのまま鋭い眼差しで男を見る。突如、電子の海に居るような、そんな眩しい光に包まれる。
「力量も測れないザコが」
私はその場にへたり込む。後ろに居た男はその場に倒れて動かない。困惑しながらも、一先ず助かったのだと安心した。
「大丈夫?」
「えっと、うん。あ、それよりもこの人どうしよう。警察かな?」
こんな経験は初めてなのでパニックに陥ってしまった。とりあえず警察を呼ぶべきだと思いスマホを取り出そうとするが銀狼ちゃんに止められる。
「ねぇ」
「どうしたの?」
「あなたは名無しの女じゃないし、ちゃんとここにいる」
彼女は私に目線を合わせるとそう告げる。話の意図が見えなくて困惑するが、ただ、何となくこの言葉を聞いてはいけないと。そんな漠然とした不安が湧き上がってくる。
「あなたはこの世界に存在している。ネームドの女性として。ちゃんと舞台に上がっている」
だから、そう言って銀狼ちゃんは私の手をとる。ふと、初めて出会った日のことを思い出した。
「家に帰ろう、お姉ちゃん」
◆
「人付き合いの苦手な君にしては珍しい」
「興味の無い人間に時間を割くのがイヤなだけ」
面白がるように目元を歪ませるカフカに、面倒なのに捕まってしまったとため息をつく。
「出不精なアナタが最近よく出かけるから疑問に思っていたけど、まさか姉を連れて来るなんてね」
「彼女には役職が必要だったから与えただけ」
異なる世界からやってきた人間と言うのは、総じて不安定である。それは精神面だけでなく、その存在に至るまでが固定されておらず、いつ消えてもおかしくない存在だ。
初めて彼女を知ったのは、とあるサイトに投稿されている動画をクリックした時だった。画面構成なんて素人丸出しのホームビデオの方がマシな出来栄えなのに、そこから流れる歌声は私の頭から離れなかった。
突如現れた新星、ジェーン・ドゥ。一部の地域で身元不明の女性を表すその名前は、ひっそりと、だが確実に広がっていった。
一度聞いたら離れないその歌声は、明日への希望や恋の喜び、あらゆる言葉を音にのせて紡いだ。
ちょっとした作業をしているときも、暇を持て余してクラッキングしているときも。果てはお気に入りの抱き枕で眠るときまでも。そのすべてにジェーンの歌が付き纏った。
まるで生活を侵食されているような焦燥。そして興味。この趣味の悪い名前を名乗る人間は、いったいどういう人なんだろう。どんな顔をしていて、何を見たら喜んで、何に悲しむのか。
恋い焦がれるような、そんな衝動のまま彼女の住所を突き止めて会いに行く。きっと顔を合わせても落胆しないだろうという自信があった。
果たして、その女は雨の中にいた。傘をさして、驚いた顔でこちらを見つめる女を見て確信する。
──これは人を狂わせる魔性だ。
本人にそんなつもりは無いだろう。ただ、周りが勝手に狂っていくだけ。纏う空気の異質さが、彼女の存在を際立たせる。
不安げに揺れる瞳も、戦うことを知らない柔らかな四肢も。きっと誰もが理想を見出して、自分が守らなければならぬと幻想を抱くだろう。
「お姉ちゃん」
そう呼ぶと、さらに目を見開いてマジマジとこちらを見つめる。彼女の存在をこの世界に定義付けるために必要な行為だ。何も恥ずかしがる必要なんてない。そう、何も。
呆れるほどに流されやすい彼女は、そのまま私を受け入れた。こちらが心配になるほど穏やかに笑う女に、私がいなかったらそんな風に暢気に笑っていられないぞとちょっとばかり苛立つ。言わないけど。
次から次に湧いてくる「彼女の一番の理解者は自分だ」と喚く人間を片付ける側の身にもなってほしい。まぁ、彼女のためならこの程度どうってことは無いけど。
あの男を泳がせておいたのは私の判断だけど、やっぱりムカつくものはムカつくのだ。何がずっと見てただ。私の方がずっと見てる。それに、私の可愛い抱き枕に勝手に抱きつくなんて許せない。いつもより丁寧に片付けないと。
あの後、不安がる彼女を言いくるめて私の家に住まわせた。住所が知られているアパートに居続けるのは危ない、と言うと真っ青な顔をして私の家に来ることに頷いた。
今はカフェを辞めて他の仕事を探しているみたいだけど、別に働かなくていいのになと思う。星核ハンターはなかなか稼ぎが良いので彼女一人を養うだけの財力はある。
家に帰ると彼女がいて、一緒にご飯を食べて、眠る。抱き着くと、頭を撫でながら歌を歌ってくれる。なんて幸せな生活だろう。
休みの日は二人で引き籠もってゲームをする。彼女と一緒にできるゲームを探すのはとても楽しい。
帰りたいと泣いていることは知っている。私の前では強がって、それこそ姉のように振る舞う彼女の心の弱さを知っている。それでも、
「返してなんて、あげない」
世界が手放した彼女は私が見つけたのだ。誰にだって渡すつもりは無い。
ジェーン・ドゥの数奇な人生