「星の綺麗な夜でした。私は空に手を伸ばしてみました。すると空に罅が入り、パラパラと夜闇の欠片が降ってきたのです。罅割れた先、その穴の中から暗い霧が溢れてきて、そうして私は……」
   ───とある少女の日記より

我々は隣人を選ぶことが出来ない。そうであるのなら、今ある環境でどのように付き合っていくかを考えた方が建設的だ。しかし、矮小な存在に過ぎない我々が神の真意を推し量ろうなどと言うのは到底無理な話なのである。 




◆

 幼い頃の私は人並みの少女だった。仲の良い両親に年の近い友達。近所の陽気なおじさん。それから優しい学校の先生。田舎の寂れた村だけどあたたかい人々に囲まれて伸び伸びと育った。周りと亀裂を生むことも無く、慎ましやかだが幸せな生活を送っていた。

 そんな日常が一変したのは16歳の誕生日を迎えた日の事だった。その日は朝から賑やかで、キッチンに立つ母に声をかければおはようの挨拶と共に頬にキスをされる。祝福の意味を持つそれにはにかんでお礼を言えば「貴女ももう16になるのねぇ」なんて感慨深そうに母は告げた。
 後ろからやってきた父は「まだ嫁にはやらんぞ!」と気の早い話をして憤っていた。私が振り向いて朝の挨拶を告げれば薄っすらと皺のある目元を和らげておはようと返してくれる。母と同じように頬にキスを落とすと、今日はご馳走を作らないといけないなと笑顔で告げた。

「私の誕生日にかこつけて、お父さんが美味しいものを食べたいだけじゃないの?」
「そんなことは無いさ!滅多に食べれない肉にありつけるからっていつもよりテンションが高い訳じゃないぞ?」
「自分で言ってるじゃん」
「こらこら、お父さんを揶揄わないの」

 母は困ったように微笑んで朝食の準備をする。畑で採れた野菜のサラダとじゃがいもを煮込んだスープ。それからちょっと硬いパンをお皿に乗せてテーブルに並べた。三人で食卓を囲めば、いつもの朝食の時間の始まりだ。

「貴女の誕生日プレゼントとして隣町から植物図鑑を取り寄せてもらったのよ」
「トラブルがあって届くのは夕方になってしまうがな」
「本当?嬉しい!届くの、楽しみに待ってるね」

 昔から図鑑を眺めるのが好きだった。それは今でも変わらなくて、この村には小さな本屋さんしか無いからあまり種類はないけれど。その代わりに誕生日にはこうして父と母が図鑑をプレゼントしてくれるのだ。

 浮かれた気持ちのまま朝食を食べ終えて、学校に向かう。学校に着けば友達が私を祝ってくれて、それにまた胸が温かくなった。恙無く授業を終えて帰路に着けば、家に迎え入れてくれた母から「図鑑、ちゃんと届いたよ」とラッピングされた包みを渡される。
 私はその包みを自分の部屋に持っていって、今すぐ読みたい気持ちを我慢して晩御飯の準備を手伝いに母の元へ向かった。

 母が焼いてくれたケーキと、父が買ってきたお高いお肉を晩御飯に食べて。もう一回「お誕生日おめでとう」と二人に祝ってもらう。照れくさい気持ちのままお礼を告げて自室へ戻った。
 そうして、漸く包みを手に取る。できるだけ丁寧に開封して中身を取り出した。最新の植物図鑑の表紙を撫でて、つい微笑む。年に一度だけ増える図鑑は私にとっての宝物だった。

 本を開いて、夢中になって読み進める。自室の机で、ランプの明かりに照らされながら図鑑を眺めた。身近に生えている植物の生態と、それからこの辺りでは見たことも無いような花の一覧。細かい注釈までもを、一つも情報を取り溢さないように目を光らせて読んだ。
 ふと、夜も更けている事に気づいた。グッと上体を反らして伸びをする。そろそろ寝なければと立ち上がってカーテンを閉めるために窓へ近づいた。外を見れば満天の星々がキラキラと輝いていて、なんだか、その時は手を伸ばせば星に届くんじゃないかなんて思ってしまって。

 そうして、手を伸ばしてしまった。普通ならそこで何も起こらなくて、変なことをしちゃったなと自分の行動を恥ずかしく思いながら眠りに就くことになるだろう。そうなると思っていたのに。

 大気が歪にうねる。空に亀裂が入り、まるで星が降ってくるようにパラパラと夜の欠片が落ちてきた。幻覚でも見ているのだろうか。私は目の前で起こっている異常事態に呆気に取られて、そのままの態勢で固まってしまった。
 罅割れた裂け目から、じわりと霧が滲む。ソレは不定形であった。形の定まらない”無”であった。夜闇が溶けるように現れたソレは深淵だった。

 何か、私では到底理解の及ばない存在が、こちらを見ている。形すらないのに、確かに私を見ているのだ。無いはずの目が合う。途端、頭を空虚が襲った。体は脱力していた。ソレは言った。この世に存在する全てが無意味であると。耐えられず私は意識を手放した。
 
◆

 目を覚ますと私は硬い床の上に倒れていた。あれからどれくらいの時間が経ったのか分からない。窓から差し込む淡い日差しを見るに、恐らく明け方なのだろう。
 痛む体をなんとか起こし、その場に座り込む。何かがおかしかった。何がおかしいのか、わからなかった。

 見える景色は変わらない。ここは自分の部屋で、見渡せばいつも使っている机にベット、クローゼットが置いてある。それらは変わらずそこに佇んでいるのに、何故だろう。この違和感は。
 まるで薄い膜を隔てて物事を捉えているような気持ち悪さ。確かに私が見ているのに、まるで第三者の視点になったかのような感覚。私は自分の手を額に当てる。言いようのない恐怖が全身を襲った。
 空気が歪んで、じわりと紫がかった黒い霧が足元から這い上がる。それは宥めるように私の身を撫でた。不思議と恐ろしくは無かった。だけど、それは安心感から来る感情ではない。寧ろ、大事なものが欠落していくような、そんな感覚だった。

「あなたは一体誰なの?」

 その問いかけに応える者は無く、漂う霧は私の体を包む。目元を覆い隠すように霧の密度は増していく。まるで何も見るなと言うように、世界を無が包んだ。
 心底可笑しな話だ。私の前から霧が晴れた時、そこには何もなかった。一面の更地。私の住んでた家も、家族もどこにもなくて。まるで初めから存在していなかったみたいだ。

 立ち上がって、一歩踏み出す。ここにはいつもおじさんが居て、朝の挨拶をすれば陽気に笑って気を付けて行ってこいと話しかけてくれた。
 もう少し歩いて行けば学校へ行く友達と待ち合わせをしていたであろう場所に着く。私が早く着くときもあれば、友達が先に着いている日もあって。私が遅かった日は、友達はしたり顔をこちらに向けていたものだ。
 こっちに行けば個人商店があって、魚や野菜なんかを取り扱っている店があった。あっちへ行けば行きつけの小さな本屋があった。そんな事を考えながら歩いていても、私の知っている面影は何処にもなくて。

 立ち止まる。私は何処へ向かっているのだろう。誰もが居なくなってしまって、こんな訳の分からない状況だというのに私は少しの困惑も悲しみも抱かないでいる。果たして私はこんな人間だっただろうか。
 よくよく体を見れば服装が変わっている。濃い藍色のワンピースに黒の長いローブ。ローブの内側は紫から青へのグラデーションになっていた。足元は何も履いていない。素足だ。これだけの距離を歩いたというのに足の裏は痛みも無く、確認しても擦り傷の一つもない。いよいよ私は可笑しくなってしまったのかもしれない。

◆

 それからどれだけの時間が経ったのか分からない。私は幾つもの街を転々としていた。この体は人の欲求を必要としなくなったから金銭的な不安は無かった。自分がこうなってしまった原因と、それを解決する方法を探して私は旅をした。
 相変わらず濃い霧は私の傍にある。幸いな事と言えばこの霧は私にしか見えていないようだから周りに不審に思われるようなことはなかった。希薄になってしまった感情で、それでも胸に占める空虚だけは感じるものだから。時折空しくなってどうしようもない時なんかは、この霧は私の感情を理解できるのか慰めるように私の体に纏わりついた。こうなってしまった諸悪の根源たる存在に慰められるという状況に更に虚しさが募る。

「やぁお嬢さん。隣の席いいかい?」

 男は私の返事を待つことなく座った。このバーには情報収集の為に訪れた。人の喧騒で包まれるこの場所には様々な言葉が飛び交っている。為になるものも、そうでないものも。私にとって有用な情報の持ち主を探すために席に座って周りを見渡していた時にこの男がやってきたのだ。

「返答も待たずに座るのね」
「これは失敬!」

 目元を仮面で覆ったその男はまるで舞台に立つ役者のように大げさな身振りで話し出す。黒い霧はザワリと揺れ、珍しく不快であるようだった。

「あまりに面白い物を見せてもらったから、話しかけなくては却って失礼だと思ってね」

 男は酒の追加を店員に頼むと手に持っていたグラスを傾ける。中に入っていた氷同士がぶつかって軽やかな音が鳴った。

「星神というのはどいつもこいつもツマラナイと思っていたが、よりにもよってあの�\が!これが笑わずにいられるだろうか。いいや無理だね!」

 口の端を釣り上げてクツクツと笑う。心底愉快だといった面持ちの男は、しかしそこには侮蔑の色は一切無く、心からこの状況を楽しんでいるようだった。

「私には貴方の言いたいことがさっぱりわからないのですが」

 それにまた一段と大きな笑い声を男は上げた。それは心臓を撫で上げるような、聞く者の心に不安と嫌悪を齎すような音色だった。これ程までに不愉快だと感じたのは何時ぶりだろうか。マイナス方面ではあるが、自身の感情の動きを感じられて久しぶりに安堵した。

「神は頭の固い馬鹿ばっか。それがあまりに嘆かわしい。どれだけ消費しても新たに補充される生命体に楽しみを見いだせないなんて、それは何とも味気ない!」

 注文した酒を注いで勢いよく煽る。こちらの困惑にすら楽しみを見出して酒の肴にしているようだ。私の周りに滲む霧は警戒するように辺りを漂っていた。

「まさか俺の理解者に成り得る存在が虚無とは。いやいや、お前のソレは俺とは違う。俺は個に興味は無い。群像劇として、ストーリーの行く末に興味があるのさ。嗚呼、でも」

 一拍。男は私を見るとニヤリと口を釣り上げた。

「ここでお前を殺したら、�\はどうなる?」

 視界が闇に包まれる。辺り一帯を霧が飲み込んだ。耳障りな笑い声は変わらず周囲に響いている。

「ただの空っぽの器と残り滓、それがお前だ」
「無に浸食されて可哀想に。見初められたと言えば聞こえは良いが、要は愛の押し売りだ」
「マ、虚無に愛なんて物が存在するかは知らないけど!」

 暗転。

◆





【メモ】

■虚無に好かれた女

・気づいたら人間辞めてた。大切な人や場所が無くなっているのに悲しめない自分に困惑している。自身の感情を取り戻す事、それから人として死ぬために旅をしている。彼女の周りを漂う霧は時と場合によって辺り一帯を包み込み全てを「無かったこと」にするので女は行動に気を付けるようにしている。

・感情が薄くなったとは言え、今までの経験は覚えているので関係の無い人々が巻き込まれて無かったことにされるのは良くない事だという認識はあるが感性は時間が経つにつれ人から離れて行っている。

・続くとしたら列車と共にしているか星核ハンターと共にしているか。どちらかというと星核ハンターの方が彼女の目的と合致しているのでエリオと契約するかもしれない。カフカの「聞いて」は果たして星神に効くのか。効果が無かった場合は全自動更地マシーンが不定期に起動するので大変そう。



■友情出演アッハ

・面白そうな事には全部首を突っ込んで引っ掻き回して大笑いしているイメージだし他の星神に接触している描写があるので言動は捏造しまくりだが登場させた。

・模擬宇宙の図鑑に虚無を殺そうとした人間に手を貸している記載があるので、あの女が虚無の心臓だとかなんとか扇動して刺客を嗾けてくるかもしれない。女にはオート発動の霧があるので怪我を負わせることすら叶わないが、結果がどうであれ愉しいのならOK!

・奇物に輝くトラペゾヘドロンサイコロがあるので某神話と接続させても許されないかな…ということでアッハの描写がニャルぽい。全部捏造だけど。サイコロで召喚されるアッハの図は面白いので見てみたい。