六月の、雨の降る日の事だった。その日は朝は晴れていたのに、午後になるに連れて雲行きが怪しくなり、放課後にはしとしとと雨が降り出していた。私は昇降口に立ち途方に暮れる。いつも鞄に入れている折り畳み傘をその日に限って持ってきていなくて、友達に借りようにもこの時間だと皆帰ってしまっている。どうしよう、職員室に行けば傘の貸し出しをしているだろうかと考えていた時、後ろから声が掛かった。

「傘無いの?」
「え、あ、うん。そうなの」
「ふーん」

 その頃はまだ穹くんと直接的な関わりは無くて、先輩を口説きまくってるだとか校内のゴミ箱を漁るために美化委員に入ったとか、そういったちょっと変わった噂ばかり聞いていたので正直怖かった。
 何かを考えているようで自分の持っている傘をじっと眺め、しばらくして「使って」と一言告げてその傘を押し付けてきた。咄嗟に受け取ってしまったものの、それなら穹くんはどうやって帰るのかと聞けば走って帰ると言われて慌てて引き留めた。

「それじゃあ風邪を引いちゃうよ」
「大丈夫、俺の体頑丈だから」

 そう返されて止める間もなく走り去ってしまった。とても足が速くてすぐにその後ろ姿は見えなくなる。私は心配に思いながらもそのまま帰路に着いた。
 次の日、案の定風邪を引いて休んだ穹くんへプリントを届ける役目を先生に頼んで任せてもらった。借りた傘と、帰り道の途中で買ったゼリーやお菓子を持って彼の住むマンションへやってきた。オートロック付きだったので入口で部屋番号を入力する。寝ていたらポストへ投函しておこうと考えつつ待っていればかすれた声でスピーカーから返事が返ってきた。

 自分の名前を告げればガタガタッと物が崩れるような音がして、なんで……と呆けたような声にプリントを届けに来たのだと答える。動くのが辛いなら部屋まで持っていくし、大丈夫ならポストに入れておくけどどうする?と問えば部屋まで持ってきてほしいと力の無い声がする。
 オートロックが解除される音がして、私はエレベーターに乗り込み穹くんの住んでいる階へ向かった。部屋の扉の前に立ちインターフォンを押せばノーモーションでドアが開いて驚く。ぱちぱちと瞬きをして、恐る恐る顔を上げれば、マスクをつけておでこに冷却シートを貼っている彼が視界に映った。見るからに体調が悪そうな出で立ちで、そんな状態の穹くんにお小言を言うのは忍びないけど「誰がいるか分からなくて危ないから、ちゃんと扉を開ける前に相手を確認したほうが良いよ」と伝えれば「嬉しくて」と返されて困惑する。熱が出ると人恋しくなるし、きっとそういうことなのだろうと考えて一つ相槌を打った。

「これ、昨日借りた傘。返すね」
「ありがとう。迷惑かけてごめん」
「いや、私も助かったから。迷惑なんて思ってないよ」
「この袋は?」
「ゼリーとか食べやすそうな物を買ってきたの。ちゃんとご飯は食べれてる?」
「……自分で作る気になれなくて」
「お家の人は?」
「いない、一人暮らし」
「そっか」

 私は鞄からプリントを取り出しながら考える。ゼリーを買ってきたとはいえ、それだけでは心許ないだろう。しっかり栄養を取ってほしいけど、突然関わりのないクラスメイトが料理作ろうか?なんて申し出ても、きっと困ってしまう。だけど、ううん。そう悩みながらプリントを渡せば確かに受け取りました、とクタッとした笑顔で告げて感謝の言葉と共に扉を閉めようとする。私は慌てて彼を引き留め声をかけた。

「その、もし穹くんが嫌じゃなければお粥作ろうか?」
「え?」
「ごめん、体調が悪いのに引き留めて。それじゃ、」
「待って、作ってほしい」

 自分で聞いておいて了承されたことに驚いてしまい「いいの?」と問いかければ「こっちのセリフ。作ってくれるの?」と言われて頷く。部屋、散らかってるけど。そう促されて足を踏み入れた。冷蔵庫に入ってるの勝手に使っていいから、と言われおっかなびっくりになりながらも準備をする。他人の家のキッチンを使うのはなんだか忍びない。事前にアレルギーの確認をしてから調理に取り掛かった。
 完成するまでベッドで横になってていいよと伝えたけど、料理をしている所が見たいからと寝室へ戻る事を断固拒否されたる。しばらく押し問答を繰り返した結果、リビングのソファで横になって待つことで落ち着いた。

 冷蔵庫を見て卵があったので取り出す。せっかく家主の許可も貰っている事だし卵がゆにしようと考える。調味料も一通り揃っていたので必要な器具と一緒に取り出した。ボウルで卵を溶きほぐす。鍋に水を入れて加熱する。簡単な動作だと言うのに、リビングからジッと感じる視線のせいで緊張してしまう。
 焦がさないように気を付けながら完成させれば、鍋からは食欲をそそるような優しい匂いがした。スプーンで一口掬って味に問題が無いのを確認してからお皿に盛り付ける。お粥とゼリーを食卓へ運べば穹くんはキラキラとした瞳でこちらを見ていた。

 彼はふらふらと覚束ない足取りで席に着き、食事を口へ運んだ。私は穹くんと入れ替わる形でソファへと座る。同じテーブルで真正面から食べている所を見られるのは嫌だろうと思ったのだ。

「夢みたいな味がする、とてもおいしい」
「それなら良かった」
「人が作ったご飯ってなんでこんなに美味しいんだろうな」

 嬉しそうにへにゃりと笑うその顔が、なんだか、とても可愛らしく思えた。今までは勝手な先入観で怖い人だと思っていたけど、表情はころころ変わるし困っている人を見過ごせないような優しい人なんだと認識をあらためた。

「多めに作った分は冷蔵庫に入れているからお腹が空いた時に食べてね」
「何から何まですまない」
「気にしないで、最初に助けられたのは私の方だし。困っているときはお互い様だよ」
「……」

 突然無言になったので「どうしたの?」と問いかければ、あー、うん、と視線を彷徨わせながら彼は口を開いた。

「昨日は格好つけて帰ったくせに風邪引いたからさ。ダサいなって自己嫌悪に陥ってた」
「私にとっては昨日の穹くんはヒーローみたいで格好良かったよ。それに、こうして話すことも出来て嬉しい。なんて、風邪を引いてる人に対して失礼だったかな」
「そんな事ない、俺もあんたと話してみたかったんだ。ずっとタイミングを伺ってたけどまさかこんな事になるなんて」
「タイミング……?」

 ちょうど完食したようでごちそうさまと手を合わせる音がした。私は立ち上がって洗い物の準備をする。キッチンに置いてれば後で俺が洗うからという声を聞き流して私は片付けに取り掛かった。

「ね、今度から教室で話しかけてもいい?」
「いいもなにもクラスメイトなんだから了承なんて取らなくていいよ」
「マジ?授業中でも?」
「それは席が離れてるから無理じゃない?」
「手紙!手紙まわす!」
「先生にバレないように気を付けてね」

 食器を洗っていれば、手持ち無沙汰なのか隣に立って話しかけてくる。休んでいなよと言ってもご飯食べたら目が冴えたのだと取り合ってくれない。普通眠くなるんじゃ?と思いながらも会話を続けた。

「隣の席だったら良かったのに」
「今度席替えあるし、もしかしたら近くの席にはなれるかもね」
「隣が良いんだけど。あ、そうだ。俺たち視力がめちゃくちゃ悪いって事にして二人で前の席陣取ればいいんじゃないか?」
「この前、視力が良すぎるとかで盛り上がってなかった?」
「そうだった……」

 つい先日、学校で眼科検診が行われた時の事を思い出す。検診後に「誰が一番視力が良いのか選手権!」とかでクラスの男子が盛り上がっていたのを覚えている。手書きの検査表を作って廊下の端から端までを使って視力検査をしていたのだが、穹くんの番で大盛り上がりを見せていた。「マサイ族の末裔」「ダチョウの親戚」「世界で一番コンタクトと無縁の男」とはやし立てられ、本人も「人類の頂点に立つ男、か……」とまんざらでもない顔をしていた。

「高校の席替えってどういう方法でやるんだろう。くじ引きだとしても紙か棒かわからないし。あみだだったらどうすれば。くじ引き、八百長で検索するか……」
「隣の席になれなくても話すからやめようね」

 実際にスマートフォンで調べようとしていたのでそれとなく止める。冗談だとは思うけど、まだ知り合ったばかりなので本気と冗談の境目がわからない。洗い物を終わらせたのでタオルで手を拭き帰り支度をすれば、玄関まで見送ると申し出た。止めても聞いてくれないのは先ほどのやり取りで理解していたのでありがたく受け入れる事にした。

「土日の休みで風邪が治ると良いね」
「うん、たぶん治るよ。皆勤賞は逃してしまったけど風邪を引いたのが金曜日でよかった。おかげで欠席日数も一日で済む」
「しっかり休んでね、あとご飯もちゃんと食べるように」
「はーい」

 それじゃあまた、学校でね。そう言って彼の住むマンションを後にした。昨日も今日も、怒涛の一日だったなと思った。入学して二カ月、可もなく不可もなくで流されるように過ごしていたので今日起こった出来事の密度がすごい。部屋に上がり込んでお粥作るのはやり過ぎたよなぁと後悔しつつ、それでも穹くんが喜んでくれた顔を思い出すとじんわりと胸が温かくなる。
 これから仲良くなれたらいいな。理由は分からないけど、どうやら彼も私の事が気になっていたようだし。隣の席になれたら毎日楽しいかもしれないけど確率的に難しいだろう。結局、穹くんと隣の席になったのは一年の終わりに近い二学期の期末テスト後だった。まさか隣になるなんてと驚く私に、やっとだなといたずらっぽい笑顔で告げる穹くんの顔は印象深く私の記憶に残っている。