シンと静まり返った廊下を歩く。自身の履くヒールの音だけが一定の間隔で響く様に、つい溜め息を吐いた。数時間前まで人のざわめきで満ちていたであろうこの場所が、たかだか一人の闖入者の手で、物言わぬ廃墟と化したのだから人生とは理不尽の連続であろう。床に倒れ伏している息の無い研究者を見る度に、他人事ながら同情心を抱いてしまう。運の無い人達だ。しかし、自分には関係の無い事だとすぐに思考を切り替える。指定されたフロアまで辿り着き、カードキーを使わずとも入れるようになってしまった開放的な扉を潜り抜け、私は目的の人物と対峙した。

「ハーイ、ご機嫌いかが?」
「貴女と会えたから最高に決まってるじゃない」
「フゥン、随分と可愛らしい事を言うのね」

 寒々しい会話の応酬に、鳥肌が立つようだった。私は腕をさするのを誤魔化すように胸の前で両腕を組む。目の前で嫣然と微笑む女は、この張り詰めた空気を知覚していないかのように楽し気な様子だ。まるで、猫が気まぐれにネズミを嬲るような、そういった嗜虐性を隠す気のない瞳で私を見つめていた。

「わざわざこんな場所に呼び出さずとも、昼下がりのカフェでだってこのやり取りは出来るでしょうに」
「あら、そんなのツマラナイじゃない」
「私はそのつまらなさが好きなんですけどね」
「せっかく退屈な毎日を送る君に、刺激的な現実をプレゼントしてあげたのに。喜んでくれないの?」
「それはそれは」

 有難い事で。続けた言葉の皮肉に気づいている筈なのに、それでも尚、無邪気な少女のようにニコリと笑うのだから、人を苛つかせる事に長けた人物だと思う。私は長く息を吐き出して気を落ち着かせる。相手のペースに飲まれる事ほど馬鹿な物はない。相手を白けた目で見てしまうのは、きっと嫌悪よりも呆れが勝っているからだ。

「それで、ご用件を伺っても?」
「逢引き♡」
「帰ってもいい?」
「冗談よ。本命はコレ」

 何処から取り出したのか、手元には白いUSBが握られている。見せつけるように手のひらでクルクルと弄ぶ様は退屈な学生を想起させるのに、持っている物が物だけに背中に冷汗が流れる。これがただのペンであればどれほど良かった事か!

「ウチの優秀なハッカーが持ってきてくれたの。中身、気になる?」
「ええ、そうですね、とても」

 険しい顔のまま、歪に吊り上げた口の端がヒクつくのがわかる。こうして態々USBをチラつかせるのだから、どうせ碌なモノではない。悲しい事に、ゼロの数が十は下らないこの犯罪者との付き合いはそれなりに長い。どうすれば最小限の被害で済ませて生きたままこの場を去れるかを頭の中で算段する。
 何故、自分はこの蜘蛛のような女に目をつけられているのか!己の悲劇に浸ろうにも場が悪い。さっさと帰って、暖かい湯船に浸かって、今日と言う一日を嘆きながらベッドへ逃避行したい。

「ラボの不祥事と、それから貴女の出生の秘密」

 サッと血の気が引く。指先から、ゾワリとした寒気が体を這うようだった。ツイてないにも程がある。本来であれば、電子の海で抹消されたデータなど修復されずに泡沫と消えると言うのに。よりにもよって。そう、よりにもよって!この女の興味を引いたばかりに形となって舞い戻ってきた。

「あえて研究所の跡地でこの話を持ち出すなんて、噂に違わぬ悪辣さ」
「あら。とてもロマンチックだと思ったのだけど」
「一度ロマンチックの意味を辞書で引いた方が良いんじゃない?」

 消したい過去が、影となって付きまとう感覚と言うのは、後ろめたい事情がある人間であれば多かれ少なかれ経験するだろう。燃やして、灰燼となって。それだけしてもしぶとい亡霊のように傍に在る。つい舌打ちが出た。

「この情報を流せば、君は一躍時の人ね。憎悪を一心に受けるよりも、モルモットとして引く手あまたになる未来が容易く想像できる」
「……何が目的?」
「目的なんて無いわ。ただ、楽しくお喋りしに来ただけよ」

 仕様がない子だと言いたげに話すのに、初めから既定路線の上を歩かされているような分かりやすい誘導を言葉の節々に感じる。全てが手のひらの上だと気づいても、どうする事も出来ないと思われている。有り体に言えば、舐められている。

「そう、オハナシ。ねぇ、私の子飼いにならない?」
「そちらには既に優秀なハッカーがいるじゃない」
「そうね。でもあの子は自由に使えないから」

 都合の良い駒が欲しい、と言外に伝わる言い様だった。例のハッカーには劣るが、それでも使えない事はないラインの仕事はできる。彼女にとって丁度いい使い勝手のポジションに、偶々当てはまってしまったのだろう。生まれてこの方、悪運は強いとはいえ何処までもツイて無い。

「私、死ぬまで自営業のつもりだったのに」
「終身雇用も気楽で良いわよ?」
「いつ死ぬとも知れない身で、最期まで面倒を見るつもりなの?」
「ええ。私、君の事気に入ってるもの」

 それに、と花のかんばせが綻ぶ。ドロリとした悪意と蜂蜜を煮詰めて、呆れるくらいに砂糖を放り込んだような甘やかな悪魔の笑みだった。

「私よりも、貴女の方が先に死ぬだろうし」

 この世はクソ。

◆

 都合の良い存在は、都合よく駆り出される。情報屋たるもの在宅勤務の安楽椅子探偵になるつもりだったのに、こうも現場に駆り出されては堪らない。今日だって、太陽の位置関係のせいで刺すように痛い陽光の照りつけるこの星に駆り出されたのだ。必要物資の回収なんて、私のやる仕事じゃ無いだろう。ましてや、こんな建物の倒壊した場所でなんて、専門職に任せた方が良い。
 子飼いなので上の詳しい状況は知らないが、今日も今日とて星核ハンター達は元気に星を破壊しているらしい。壊滅した数は、なんだっけ。多分調べたら出てくるのだろう。それこそ彼女の懸賞額のように。私はこれ以上気が滅入る情報を仕入れたくないので知らない振りをするけど。情報を武器とするとは言え、自身を守るための取捨選択は必要だろう。

 倒れたビルの、むき出しの鉄筋を階段のように上りながら私は考える。優雅で、無邪気で、残酷。カフカという女性は、何所まで行っても簒奪者でしか無かった。だというのに、破壊するだけしつくして、国を統べるつもりも無い無責任な女。まるで台風の目のように、彼女を中心として周囲を蹂躙する。カフカは、紅茶でも啜っているような気軽さで血の海を作り出す。悍ましく、だと言うのに人の目を惹いて止まない可憐さまで持ち合わせていのだから質が悪い。
 艶やかな大人の女性の色香と、アンバランスな少女性が同居していて、多分それが魅力的に映るのだろうと思う。破滅すると分かっていて尚、彼女に手を伸ばそうとする男の多さに辟易した。あの女郎蜘蛛に捕まったとて頭からバリバリと喰われて終わりだというのに。世の中には物好きが多すぎる。

 そう、そうだ。あの女はどうしたって与えるよりも奪う事しか出来ない。私が施設に引き取られる前、忌々しいラボへ収容されるより昔。あの日、私の生まれ故郷は戦火の渦に呑まれた。悪化する財政状況、王族の醜聞。あらゆるタイミングが上手く重なって民衆は反旗を翻した。クーデターに乗じて何をしたのかは分からない。だけど、あの日私の生まれた星は彼女の手で滅んだ。瓦礫に埋もれ、血で瞼が塞がる中、それでも確かにコートをはためかせ、笑い声を上げながら戦場を駆けるカフカの後ろ姿を見た。
 その後は思い出したくも無い記憶で溢れている。彼女は私に憎悪を一心に受けると言ったが、それだってカフカの所業に比べたら雀の涙だ。いつだって、耳を塞ぎたくなるような怨嗟の声が蔓延る場所で彼女は生きている。きっと、そういう風にしか生きれない人なのだ。

「随分と派手にやったね」

 しばらく歩くと、見慣れた後ろ姿があった。お気に入りのコートは珍しく返り血で赤く染まっていた。クルリと軽やかに振り向いたカフカの顔にもべっとりと血が付いており、おや、と珍しい物を見た心地になった。

「やっときたのね、待ちくたびれたわ」
「カフカが私に会いにくればもっと早く済んだのに」

 軽口を叩いてみるが、ニコッと笑みを浮かべるだけ。嗚呼、これは嫌な予感がする。私は一歩身を引き、元の予定であった物資の引き渡しについて申し出た。

「それで、私は何を運べば?」
「そんなものとっくに刃ちゃんが持ち帰ったわ」
「は?」

 なに言ってんだこの女、と口にしそうになるのをギリギリで耐えた。それなら何故こんな場所まで呼んだんだと言いかけて、止まった。
 カフカの目が爛々と輝いている。これは戦場で高ぶった人間特有の表情だ。しまった、と引き返そうとした時にはもう遅く、私は青空を見上げていた。

「溜まっているのなら他を当たって。それとも男の斡旋でもしようか?」
「あら酷い。私に我慢しろって言うの?」

 酷いのはどっちだと口にする前に唇を塞がれた。繊細で美しい外見とはかけ離れた、獣のように荒々しいキスだ。舌同士を押し付けて、絡めて、テクニックなど関係ない本能での交わり。唾液と、血の味が混じって最悪な気持ちになった。顔同士か近づく事で、私の頬にも乾きかけていた彼女の返り血が付く。満足するまで貪って、私の頬に付いた血を見た彼女は、嬉しそうにそこにも口付けを落とした。

「ちょっとは満足した?早くどいて」
「イ・ヤ」
「こんな土埃の舞う瓦礫の上でしたくないんだけど。というか他の人に見られたらどうするの」
「み〜んなもう帰っちゃったし、ここには私たち二人きりよ」
「は?」

 どついたろうかこの女。今回は口にしそうになったがまた塞がれてしまったせいで未遂に終わった。当たり前のようにこの星の住民は全滅したのだと確信しているのが、妙に腹立たしかった。あの日の私のように、もしかしたら瓦礫の下でか細い呼吸をしている人がいるかもしれないと考えて。居たとして、私に何が出来るのだろうかと思った。
 カフカがここに居る限り、秘密裏に逃がすなんて真似は出来そうにない。それならば、ここで彼女が足止めを食らっている間に運よく逃げ切る方がまだ可能性はある。不埒な手が服の隙間に侵入するのを食い止めようとするが圧倒的な力量差の前に屈した。外見詐欺にも程がある。この細腕にどうしてこのような力があるのか。やっぱりこの世はクソ。





怨嗟の声が聞こえるか